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一般的な情報
国名
Rzeczpospolita Polska (ポーランド共和国)。短い名前はだたPolska (ポルスカ)で、日本語の名前「ポーランド」は英語の国名” Poland ”に由来する。ランドは元々ドイツ語の名前で、「国」という意味だ。ポルスカというのは西スラヴの部族のPolanie (ポラーニエ)に由来する。この言葉はスラヴ語の「 Polje 」に由来して、それの意味はただ畑だ。要するにポーランド人は昔「畑の人」と呼ばれた。
面積
312,685 km². それは日本の8割ぐらい。
人口
約 3860万人* (2004年現在)。それは日本の人口の三分の一以下だ。人口の大部分はカトリックなのに(カトリックの教徒にとって、避妊と堕胎は厳禁)、人口増加率はほとんどゼロ。
民族
第二次世界大戦の後に行われた人口の四散の結果として、現在のポーランドの人口はかなり同種の民族になった: 96,7%はポーランド人、0,4%だけはドイツ人。その他にはベラルーシ人やウクライナ人、アルメニア人やカライム人などの少数民族がある。最近、ベトナム人の少数民族もあることになった(2002年現在)。
宗教
ポーランドは昔からカトリックの牙城だ。だからクラクフの大司教Karol Wojtyła(カーロル・ヴォイティワ)、別名ヨハネス・ポール2世、は教皇の位についたのは驚くべきものではない。ポーランドの人口の95%はカトリックの教徒だが、その内、4分の三”だけ”は信仰を実行する。それ以外はポーランド正教会の教徒もいる。
時差
日本より7時間遅れ。サマータイムがあるので、4月の下旬から10月の下旬まで (大体その月の最後の土日の間の夜から) 時差は日本より8時間遅れるようになる。
言語
ポーランド語。この言語はサテム諸語(100を表す言葉はストまたはサト等という意味)の中で西スラヴ語族の一つの言語で、インド・ヨーロッパ語圏に属している。ポーランド語に一番近い言語は特にチェコ語と、ある程度までスロヴァキア語だ。東ドイツの南東に住んでいるソルビア人という少数民族は ソルビア語というポーランド語に大変似ている言語で話している。
ポーランド語の特徴は次のようだ:名詞の場合には、ドイツ語と同様に男性、女性と中性、そして単数と複数がある。英語と同様に、名詞はいつも小文字で書かれている。全部で六つの格がある。それはそれは主格・属格・与格・対格・具格と前置詞格だ。それに加えて、呼格という呼びかけっだけで使われている核がある。当然ながら、色々な時称があるが、一つの過去形しかないという特徴がある。
簡単にいうと、読み方は書き方にすごく近い。他のスラヴ語族の言語と同じく、歯擦音(ス、シュ)が多い。その音は英語で使われていない符号つき文字または特別な文字の組合せで書かれている。沢山の言葉には母音が少なくて、”S”、”C”や”Z”などが多くて最初に読みにくい言葉かある(例えば Szczecin という地名)。しかし、文字の組合せの読み方をわかると、発音は一応簡単になる。
ポーランド語には最初からローマ字が使われているが、色々な発音区別符号付き文字がある。ポーランド語ができない人はよくその文字を無視しているが、そうするとその言葉はポーランド人にとって分からなくなる。一つの有名な例は大都市Łódźだ。特殊文字を無視してこの地名を「ロドズ」または「ロツ」と読んでしまう旅行者が多いが、本当の発音は「ヴッチ」で、全然違うだろう。その為、レストランで食べ物を注文する前、そして切符を買う前には読み方をチェックしたほうがいい。次の文字は英語と違う:
- Ą (ą) : この文字はスラヴ語の特徴だが、他のスラヴ語で使わなくなった。この鼻声の「オ」は「香港」の中の「ホン」のように読まれている。これはフランス語にもよく聞こえる音だ。
- Ć (ć): 読み方は「チ」のようだ。
- CZ: この組合せも「チ」と読まれている。
- Ę (ę): これは鼻声の「エ」( eŋ )で、「レンゲ」の中の「エン」のように読まれている。
- Ł (ł): この文字はかなり珍しくて、ポーランド語だけで使われているものだ。読み方は英語の「W」と同じで、「ウィスキー」の中の「ウィ」と同じだ。
- Ń (ń) : 柔らかい「ン」で、「ニュー」の中の「二」として読まれている。
- Ó (ó) : これは普通の「ウ」だ。
- RZ: 読み方は「 Ż 」と同じ。
- Ś (ś): 無声の [sh] で、日本語の「シ」と同じ。
- SC: 読み方は「 Ś 」と同じ。
- Ź (ź): 「 ツ 」と「 ジ 」の間の歯擦音。日本語の「ヂ」に近いが、実は英語にも日本語にもこの音がない。
- Ż (ż): 有声の音で、日本語で「ジ」は一番近い。英語の「 television 」の中の「 s 」と同じ。
ポーランド語には、アクセントはいつも後ろから二番目の音節に置かれているが、外来語の場合には例外もある。チェコ語またはスロヴァキア語、ウクライナ語などを少しだけわかる場合には、ポーランド語を習うのは少し簡単になる。ロシア語が分かる人はポーランドで色々を理解することができるが、自分でロシア語で喋るとあまり通じない。数年前、ドイツ語で話すことはポーランドでかなり危険だった。しかし、今ではドイツ語で喋ると分かる人が多くて全然平気だ。ドイツ語のほうか英語のほうかどちのほうが普及しているのはいいにくい。
様々なスラブ語での一番大切な単語の一覧を見るため、次のリンクを クリックして下さい。
自然
ポーランドはバルト三国やベラルーシ、ドイツの北部などと同じように特に氷河時代によって形成されたところだ。それは所々でかなり魅力的だ。北にはポーランドはバルト海に面していて、海岸の長さは全部で500キロ以上だ。そこには白い砂浜や二つの数十キロの長さの砂洲などがあり、「白砂青松」という景色がよくみえる。東北部には有名なマズーレン湖沼地方というなだらかな丘と無数の湖がある素晴らしい景色が広がっている ― これも最後の氷河時代の証だ。近くにはBiałowieża (ビャウォウィジャ)国立公園というヨーロッパの自然のままの森林の一つがある。その国立公園は Białystok (ビャウィストク)という都市に近いが、公園の大部分はベラルーシにある(国立公園についてはブレストの周辺を参照)。その他にはポーランドに21の国立公園がある。国全体の四分の一は森林に占められている。
ポーランドの南東部もかなり自然のままのところだ。その辺には人口密度は非常に低くて、丘と山、畑と森林などの素敵な組合せが見える。それと対照的にはポーランドの中心部はあまり魅力的ではない。中心は平原で、森林があまりない。そこには都市と村が多くて、人口密度がかなり高い。南の国境沿いの景色は他の地方と全く違う。南西には、Karkonosze (カルコノシェ、巨人の山地)というズデーティ山脈の一部、そして南東でTatry Wysokie (高いタトリ)という山脈が広がっている。タトリの大部分は南東の隣国スロヴァキアの領地だ。そこには標高2,499メートルのポーランドの最高峰Rysy (リズィ)がある。その山は国境の上にあるから、ポーランドを入国しなくても登山することができる。リズィ山は高山地の中にあるが、高所恐怖症がないと誰でも登山できる。数時間登山した後のご褒美は素晴らしい眺めと・・・レーニンの記念碑だ!タトリ山地の写真ともっと詳細な情報はスロヴァキアの自然を参照。
ポーランドの人口密度は中欧と西欧の諸国より低いから、自然のままのところはみつけやすい。西ポーランドにも色々な景色が綺麗な場所がある。河川はあまり真直ぐにされなくて、自然のままの森林も多い。気候は中欧とほとんど同じだ。しかし、東へ進むと、段々大陸性の気候になる。というのは、東部の冬は西部より長くて寒い。夏はかなり暖かくて、そのときは降水量のピークだ。ポーランドには場所によって四つの季節とも魅力的だ。
歴史
実は、全てのヨーロッパの諸国の歴史は長くて波瀾に富んだものだ。しかし、ポーランドの歴史は特に悲劇的なものだ。違う言葉でいうと、歴史を見ると現在のポーランドの調和的な状況は珍しいものだ。そもそもの始まりは次のようだ:6世紀以来、ポラーニエ族というスラヴ族の部族は現在のポーランドへ移住した。その前、まずゲルマン族、そしてゴート族はそこに定住した。ゲルマン人とゴート人は多分いつかフン族などの遊牧民によって追放された。
スラヴ族は段々ポーランドを占領して西方へ進んだ。現在にも、そのスラヴ族はどこまで進んできたというのは分かりやすい。東ドイツの地名を見ると、スラヴ語の地名(例えば Delitzsch など)とドイツ語の地名( Bitterfeld など)の間の線は一番西のスラヴ族の分布区域を表す。但し、スラヴ族はまず国家のようなものを創立しなかった。最初にはまず色々なスラヴ公国が発生した。南部の公国は統一してモラビア大公国を創立した(参照:チェコの歴史)。それは830年だった。現在のポーランドの大きい部分はそれの領地だった。しかし、900年以来、マジャール族(参照:ハンガリーの歴史)は50年間ぐらいモラビア大公国と他の地域を荒らしてしまった。966年、ミェシュコ1世公は最初のポーランド公国を創立できた。独立を得るため、彼もポーランド人もキリスト教を受けた。だが、その公国はかなり小さくて、現在のPoznań (ポズナン)の周辺だけで広がっていた。
ミェシュコ1世が亡くなった後、彼の息子”勇敢な” Bolesław (ボレスワフ)は支配者になった。ボレスワフの支配下のポーランドは拡大して、ドイツのブランデンブルク州の大部分も含んでいた。だから現ポーランドの一番西の地方は今でもWojewództwo lubuskie (レブース州)と呼ばれている ― レブースはオデル川の左岸の町で、ドイツの都市だ。皇帝は1025年にボレスワフを最初のポーランドの王様に任命した。
ミェシュコとボレスワフはピャスト王朝の祖だった。ピャスト王朝はそれ以来かなり長くポーランドを統治した。色々な侵略戦争のおかげで、ポーランド王国は現在のポーランドと同じように大きくなった。首都としてはKraków(クラクフ)が決められた。だが、南方にはタタール族、そして北方にはドイツのチュートン騎士団はポーランドを脅かした。14世紀、ドイツの騎士は結局Hinterpommern(後部ポンメルン)という現ポーランドの北西部とŚląsk ・ ドイツ語:Schlesien (シレジア)という現ポーランドの南西部を侵略して、両方の地方は1945年までドイツの領地になった。最初のピャスト王朝の王様Kazimierz III Wielki (カジミエーシュ3世大王)は1333年から1370年までポーランドを統治して、その前割ってしまったポーランドを再び統一して王国を大規模に拡張した。結果としては現在のウクライナの大部分はポーランド王国の領地だった。
ボレスワフには男性の子供がいなかったから、ポーランドはそのときに有力のリトアニアと結婚という手段で同盟を結んだ。その為、リトアニアのJagiełło (ヤギェウォ)王は1386年にポーランドとリトアニアの支配者になった。同時に、リトアニア人はヨーロッパの最後の民族としてキリスト教に改宗された。ヤギェウォ王朝のとき、ポーランド・リトアニアの黄金時代が始まって、その国はヨーロッパの超大国の一つになった。その王国は黒海の汀までわたっていた。1410年、ポーランド・リトアニアはチュートン騎士団をポーランドから追放した。
その後、ポーランドの平和時代が始まって、文化と科学が繁盛してきた。1569年、リトアニアとポーランドは完全に統一した。しかし、ポーランドはリトアニアより優位に立っていた。4年後、ヤギェウォ王朝は終わった。その代わりに、次の王様は選挙された。ポーランド・リトアニアは貴族共和国というその時代にかなり進歩的な国家になった。ポーランド・リトアニアは現ポーランドと現リトアニアばかりではなくて、ラトヴィアとベラルーシ、そして現在のウクライナの大部分を含んだ。そのとき、ポーランド・リトアニアはヨーロッパの一番大きな国だった。それの一つの理由は宗教戦争だった。他のヨーロッパには長くて破滅的な宗教戦争が勃発してしまったが、ポーランドはずっとカトリックだった。それでもポーランド・リトアニアは他の宗教に対して寛容であった。そのため、ユダヤ人の文化は繁栄した。1596年に、首都はもっと中心的なWarszawa (ワルシャワ)へ遷都された。
17世紀と18世紀のポーランドはまた大混乱になった。モスクワとオスマン帝国、コサックなどと色々な戦争が勃発した。18世紀の後期、ポーランドは段々没落してしまった。ポーランドの政府は反応できなくなって、1772年の第一次ポーランド分割を防止することができなかった。その分割の結果として、グダンスクと西プロシア、そしてエルメランドという現ポーランドの北部の中心はプロシアいわゆるドイツの領地になった。東ベラルーシはロシア領地、そしてガリチア(南東ポーランドと現ウクライナのリヴィフ市の周辺はオーストリア・ハンガリーの領地になった。
それでも残ったポーランドは繁栄した。1791年、ポーランドはヨーロッパの最初の国として憲法を制定した。それはその時代にかなり進歩的だった。だが、隣の大国はそれに興味がなかった。1793年、第二次ポーランド分割が行われた。プロシアはその機会でWojewództwo wielkopolskie (大ポーランド)というポズナンの周辺の中核地域を占領してしまった。ロシア帝国は同時にベラルーシの残った部分と黒ロシア、小ロシアとポドリア(それは現ベラルーシとウクライナ、そして沿ドニエストル共和国に広がっている歴史上の地方)を強奪した。続いて、占領者に対して激しい蜂起が勃発してしまった。その為、ロシアとプロシア、そしてオーストリア・ハンガリー帝国は1795年の第三次ポーランド分割でポーランドという国家を完全に解消した。西ガリチアとクラクフはオーストリア・ハンガリー、新東プロシアと新シレジアはプロシア、そして現ベラルーシ全体とリトアニアの大部分、そしてクールランドというラトヴィアの東部はロシア帝国の属州になった。
1807年、フランスの皇帝ナポレオンは現ポーランド全体を侵略して、ワルシャワ大公国を創立した。しかし、ナポレオンの敗北の後、ポーランドはまた分割された。それは1815年のウィーン会議で承認された。その会議によって、三つの占領国はポーランド人の公民権を守るはずだった。しかし、実は三つの占領国はある程度までポーランド人の権利を制限した。結果としては色々な反乱があった。特にロシアの占領地に住んでいたポーランド人は酷い目に遭って、内戦のような状況になった。
第一世界大戦のとき、ドイツはポーランドを独立ポーランド王国の創立で引っ掛けた。その為、1916年にポーランドは122年ぶり独立になった。1917年、ロシアの革命が始まって、東部はまた内戦状態になった。ポーランドの独立性は1918年のブレスト・リトフスク調和条約で承認された。ドイツの敗北の後、その条約はキャンセルされたが、ポーランドは相変わらず独立だった。その前にロシア帝国とプロシアによって占領された地域は新ポーランドの一部になった。その上、ポーランドは Gdynia (グディニア)市の周辺でバルト海への自由な通行権を得た。
ロシアにはそのときに流血の内戦が猛威をふるって、ボルシェビキとメンシェビキ、そして他の反革命運動も国全体を破滅に陥れた。ポーランドはその有利な状況を逃さなくて、Piłsudski (ピウスツキ)将帥の指揮下で旧東ポーランドをロシアから奪い返した。創立されたばかり赤軍は反撃してワルシャワの郊外まで進んだが、ポーランドの軍隊はその後広い領地を占領して、ソ連はその戦争で甚大な損失をこうむった。こういうふうに、ポーランドは現リトアニアの首都ビリニュスの周辺やリヴィフなどを侵略した。1921年、ポーランドとソ連はリーガで調和条約を結んだ。
ピウスツキは1926年のクーデターの後、議会民主制度を廃止して、それ以来ポーランドを独裁者のように統治した。しかし、ピウスツキは1935年に亡くなって、ポーランドはそれ以来弱化してしまった。次の破局は1939年9月1日に始まった。その前、ドイツとソ連は独ソ不可侵条約の秘密付属協定でポーランドの第5次分割を決めた。ドイツは最初の国としてその秘密付属協定を果たしてポーランドを攻撃した。ドイツの宣戦布告の理由は、Gliwice (ドイツ語:Gleiwitz)、グリヴィツェにあったドイツの送信所の狂言に過ぎなかった攻撃だった。最初には、ドイツの空軍は偶然に選ばれたポーランドの小町を空爆した。要するに大事に世界大戦の最初の犠牲者は皆一般市民だった。ポーランドは抵抗したが、結局ナチス・ドイツの軍隊の何倍もの優勢に屈した。このBlitzkrieg (雷撃戦)に伴い、ポーランドの同盟国フランスとイギリスはドイツに宣戦布告して、こういうふうに第二次世界大戦が始まったのは必然の結果だった。
ドイツが侵略したとき、ポーランドの市民たちはすぐそれから何が襲ってくるかということを分かった。大都市はまず激しい空爆を受けた。当然ながら、特に首都は酷い目に遭った。9月17日以来、ソ連は東から侵略してブーグ川という現ポーランドの東の境界まで進んだ。三週間後、ナチス・ドイツはブーグ川のポーランド全体を占領した。それ以来、ナチス・ドイツは本当の顔を表した。ポーランドは計画性に崩壊されて、全部で280万人のポーランド人、そして同じぐらいのユダヤ人は次の6年間の間に殺された。しかし、色々な蜂起とパルチザン活動があった。それは部分的にロンドンに於ける亡命政府によって計画され、ポーランドを完全に支配することは無理だとはっきりした。その内、1943年のワルシャワのゲットの蜂起と翌年のワルシャワのポーランド人の蜂起は激しかった。然し、両方の蜂起は破滅的な結果をもたらした。
ナチス・ドイツの軍隊は1944年のワルシャワの蜂起を粗暴に鎮圧したとき、赤軍は数キロだけ離れていた。しかし、赤軍はまず蜂起の終了を待って、ポーランド人を全く応援しなかった。1945年初期、赤軍は西方へ進んでポーランドを解放した。それは本当に”解放”と呼んでもいいだろうか。解放の後、ソ連はまずポーランドの将校団と他の反革命の人を処刑した。テヘランとヤルタ、そしてポツダムの会談で戦後のポーランドの国境が定められた。短くいうと、ポーランドの国全体は数百キロ西方へ移動された。要するに旧ポーランドの東部はソ連の領地になって、補償として旧ドイツの東部はポーランドの領地になった。それ以来、旧東ドイツとポーランドの間の国境はオドラ・ニサ平和の国境(オドラとニサは国境沿いの河川)と呼ばれた。シレジアと東プロシア、そして後部ポンメルンという伝統的なドイツの州はポーランドの領地になった。それに従って、大規模の民族浄化が実行された。ポーランド人は情け容赦なくウクライナから追放された。ウクライナ人はポーランドで同じ目に遭った。そして数百万人のドイツ人はポーランドから追い払われた。残ったのはソ連とドイツに対してのやみくもの憎悪だった。
スターリンの意見によって、「・・・ポーランドに共産主義を導入するのは牛に鞍を置くと同じ」だ。面白そう言い方だが、実はそれは本当だった。共産主義は導入されたが、1956年、1968年、1970年と1976年には蜂起が発生して、ポーランドはずっと大混乱していた。次に1980〜81年までのゼネストで国全体は麻痺状態になって、戒厳令が布告された。共産主義の政府は人口から孤立させられた。数年間、旧東ドイツの市民たちさえポーランドへ行けなくなった。ポーランドは経済的にも不成功だった。計画経済という制度があったが、インフレは激しかった。反対派のSolidarność (連帯)という有力の組合運動は段々強化した。1989年、最初の自由選挙が行われ、結果としては共産党は一つの議席も獲得できなかった。
その選挙の結果はポーランドの共産主義にとって最後のとどめだった。1990年、全然人気のないJaruzelski (ヤルゼルスキー)大統領は退陣して、選挙の結果に応じて「連帯」組合運動の人気のあるリーダーWałęsa (ワレサ)は最初の民主的に選挙された大統領になった。それ以来、沢山の変化があった。昔から有力な教会の影響は段々増えてきた。ポーランドの政治機構も経済も改革された。2004年5月、ポーランドは結局 EU に加盟した。数年前、ポーランドは NATO (北大西洋条約機構)に加盟した。イラク・アメリカの第二次戦争のとき、ポーランドはヨーロッパでアメリカの一番大切なパートナーになった。しかし、全ての問題が解決されたということはもちろんありえない。失業率は非常に高くて、そして犯罪率は急増した。それの一つの原因及び結果は色々な住民階層の貧困化だ。この問題の解決はポーランドの近い将来のチャレンジだ。だが、最近ドイツとウクライナとの関係は前と比べて大変よくなってきたのは嬉しいことだ。
旅行案内
自序
私は1983年以来数十回ポーランドへ行ったり来たりした。一つの理由はそのときによく行われた青少年交換だった。しかし、何回もポーランドを旅したのに、この国についてホームページを書く気がなかった。昔、ポーランドの経済的な状況は大変だった。一方には色々な必要な食品がなかった。他方には旧東ドイツで全く手に入らない音楽などがあった。ドイツ人だから、石を投げたり「ナチ!ナチ!」を叫んだりなどをした子供たちがいた ― それは自分で体験したものだ。それは1980年代の話だ。それ以来、本当に沢山のことが変わった。今では、ドイツ語を習うポーランド人が多い。そしてポーランドでドイツ語で話すと問題がない。それは両国の政治家のおかげだ。一番ドイツとポーランドの間の関係を改善した人は多分 Willy Brandt (ヴィリー・ブラント、西ドイツの1969〜1974年の首相)だった。
ビザ
数年前からビザは日本人にとって不要になった。有効なパスポートは十分だ。ポーランドは EU に加盟したから、ドイツ・ポーランドとポーランド・チェコの国境の厳しい検閲はなくなった。
通貨
ポーランドの通貨はZłoty (ズウォティ)と呼ばれて、それはただ「黄金」という意味だ。その通貨の略語はZłだ。
補助通貨はGrosz(グロシュ、複数:groszy、グロシ)、略語:grと呼ばれて、1 Zł = 100 gr だ。ポーランドの通貨は安定させられて、インフレは数年前だいたい止められた。両替レートは1 ユーロ = 4 Zł (100円 ≒ 3 Zł)で、変動があまりない。だから共産主義時代にあった両替の闇市場はなくなった。
硬貨には1、5、10、20、50 gr、そして1、2と5 Zł がある。紙幣で10、20、50、100と200 Zł のお札がある。
中欧と同様に、どこにも銀行と現金自動支払機があり、普通のキャッシュ・カードとクレジット・カードが簡単に使える。銀行でお金を両替することもできる。主な銀行だったら、日本円が使える。それ以外はユーロは一番便利だ。
物価
物価は相変わらず西欧などより安いが、値段は1990年代にかなり高くなってきた。物価は南の隣国チェコとほとんど同じだが、実はチェコのほうには選択肢が多い。町の中心部にも一人で1300円ぐらいで泊まることができるが、そうしたら質はだいたい悪い。外食する場合には色々な選択肢があって、値段の差は大きい。一番安いところはbar mleczny (逐語訳:ミルク・バー)と呼ばれて、そこで150円ぐらいで満腹なることができる。ミルク・ハー食堂のようなところで、乳製品ばかりを売っているわけではない。1990年代以来、無数のrestauracja (レストラン)はどこでも雨後の筍のようにニョキニョキ建たれた。
ポーランドの運賃はまだ安いが、ポーランドはかなり大きい国なので、国全体を旅する場合には切符だけでかなりお金を使うようになる。例を挙げると、首都ワルシャワから400キロぐらい離れているWrocław(ヴロツワフ)まで列車で行くと、運賃は約1300円かかる。
一日一人で2500円ぐらい使うとポーランドを旅行することができる。しかし、それはポーランドであまり楽しくなくなる。一日で4000円ぐらいで計算すると安全だ。
往路
ヨーロッパの各地から簡単に飛行機で、そしてバス、列車と船で行ける。残念ながら、日本からの直行便がないから、ヨーロッパでどこかの都市で乗り換えることが必要になる。ドイツなどから、色々なワルシャワやクラクフなど行き安いフライトがある。
バルト海に面しているポーランドまでは色々なフェリーがある。その内、Ystad (イスタ)と Nynäshamn (ニニョスハムン)というスウェーデンの港の町、そしてデンマークの首都コペンハーゲンから直接のフェリーがある。それに加えて、海岸沿いに走っているフェリーもある。一つのフェリーは東北ドイツのウゼドム半島の町から北西ポーランドの都市 Świnoujście (シフィノウィシチェ)まで行く。
列車で行く場合には沢山の選択肢がある。西方からポーランドへ行くとき、Berlin-Warszawa-Express(ベルリン⇔ワルシャワ急行)はベストだ。一日中両方面へ3本の列車があり、ベルリンからの運賃は 30 ユーロ(1400円)だけだ。フランクフルトという国境からの町からの運賃は20ユーロだけ。ベルリンからワルシャワまでの所要時間は6時間だ。その他のドイツとポーランドの間のマイナーのルートを走る列車もある。国境まで行って、最初のポーランドの駅でポーランドの切符を買うのは一番安い行き方だ。
ポーランドの一番大切な列車の交差点はもちろんワルシャワだ。首都には二つの主な駅がある。それはCentralna(中央駅)とWschodnia (東駅)だ。全ての西方からワルシャワまで走る列車は途中でPoznań (ポズナン)に止まる。 Ost-West-Express (西東急行)という列車はベルギーの首都Bruxelles(ブラッセル)から(15時間半) Köln (ケルン)経由(12時間)ワルシャワまで行く。同じ列車は次にブレストというベラルーシの国境の町まで走る。所要時間は4時間ぐらいで、運賃は約1700円だ。ベラルーシの首都ミンスクまでの所要時間は10時間だ。ベラルーシにはビザが必要で、そのビザは行く前に手に入れるはずだ。ワルシャワから直接モスクワ(18時間)とザラトフまで走っている列車もある。
一日中、二つのウクライナの首都キエフ行き列車がある。所要時間は17時間ぐらいで、それの一つはベルリンからの列車だ(参照: ウクライナの往路)。他にはプラハ行き直行もある。所要時間は9時間で、その列車はオロモウツ(5時間)だ。そしてブダペスト(10時間)へのブラチスラヴァ経由の列車とウィーンまでの直行(7時間半)がある。
もう一つのとても便利な列車はワルシャワから直接ビリニュスというバルト三国のリトアニアの首都まで走っている。それは三つの車輛しかないホテル・トレインで、首都から首都までの所要時間は10時間±1時間の時差だ。その列車はワルシャワから奇数の日だけに出発して、中央駅からの出発時間は 21:42 だ。ご注意: この列車はもうベラルーシの領地を横断していない ― 要するにビザが要らない(昔、この列車はベラルーシ経由だった)。運賃は19,30ユーロ(2500円)+16ユーロの寝台別料金だ。その列車は清潔でとても便利だ。モダンな列車なのに、車輛には石炭で動いている暖房がある。このホテル・トレインは途中で Białystok (ビャウィストク)と Kaunas(カウナス)に止まる。
当然ながらバスでも行ける。一つの主なバスの会社はEurolinesと呼ばれて、デンマークとドイツの大都市からポーランド経由ビリニュスとリーガ、タリンなどまで走っている。もっと詳しい情報はwww.eurolinijos.ltを参照。その会社のバスは近代的で、中々便利だ。
国境通過点
ポーランドは北方でバルト海に面している上、七つの国との国境がある。それは北から時計回りにロシアの飛び領土カリニングラード州、 リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、スロヴァキア、チェコとドイツだ。特に南方と西方には無数の列車と車専用の国境通過点がある。ドイツへの主な通過点はGörlitz ⇔ Zgorelec、Frankfurt/Oder ⇔ Słubiceと ベルリン とSzczecin(シュチェチン)の間の通過点、そしてバルト海にあるAhlbeck ⇔ Świnoujście (シフィノウィシチェ)の通過点だ。
入出国
チェコ、スロヴァキア、ドイツとリトアニアはポーランドと同様にEU のメンバーだから、検閲があまりなくて入出国は全く問題ではない。しかし、東方の国境はEU の境界だから入出国は難しくなるところがある。ベラルーシとウクライナ、そしてロシアの領地カリニングラードへ行く場合には、ビザは是非行く前に手に入れるものだ! 車でその国境を越えるのはかなり難しくて、マフィアにお金を払わないと待ち時間は一日間を超える恐れがある。検閲も厳しくなる可能性が高い。
食事
1980年代に、これからポーランドへ二週間ぐらい行くということを思ったとき、いつも鳥肌が立っていた。その理由はポーランドの食事だった。特にKiełbasa (キェウバサ)という妙なソーセージ、ピンクのニンニクのスープとミクサーで作られたような、何が入っているのはよく分からない料理、そしてマヨネーズばかりのサラダは私にとって怪しかった。全部は現在にも売られているが、質は前よりいい。ポーランド料理を見ると、一つの共通点がある:ほとんど全ての材料はグリーンピースの大きさぐらいまで小さく切られている。その結果は時々かなりまずそうだ。悪いが、料理を考えると、ポーランドは私にとって東欧のイギリスだ。ただフィッシュ・アンド・チップスがない。
ポーランド料理のレストランには、よくBigos (ビゴス)というソーセージとザワークラウト入り煮込んだ料理がある。大したものではないが、ビゴスはかなり美味しくてこれですぐ満腹なる。同じように普及している料理は Gołąbki (ゴウォンブキ)というロール・キャベツだ。中には特に米と挽き肉が入っている。ロシアから輸入されたpierogi (ピエローギ)という水餃子のようなものもよくある。しかし、ポーランドの屋台などにはそのピエローギは時々揚げられている。それはびっくりするほどまずいから止めたほうがいい。Placki Ziemniaczane (プラツキ・ズィエムニャツァーネ)というポーランド風のじゃが芋のパンケーキもよくある。最近、メキシコ料理やイタリア料理、ユダヤ料理などの専門店もあるので、ポーランド料理に飽きたら十分の選択肢がある。
ポーランドは昔からWódka (ウォッカ)の国だ。だから沢山のウォッカの種類があって、その内Źubrówka(ジュブルフカ)という草の茎入りウォッカは一番有名だ。このウオッカはやや甘くて皆の趣味ではない。当然ながら、Piwo(ビール)も普及している。Okocim や EB などはかなりおいしいが、チェコのビールはポーランド製のビールに負けない。
リンク集
- www.poland.gov.pl:ポーランドの政府の多国語のページ。日本語版がないが、英語版には沢山の情報がある。
- www.poland.or.jp:在日ポーランドの大使館のホームページ。ニュースと一般的な情報もある。
- www.e.okayama-u.ac.jp/~taguchi:ポーランドについて詳しいページ。日本語
- www.japoland.pl/:ヤッポランド、日ポ友好の日本語のページ。観光地などについての情報もある。
- sachiko.vip.interia.pl/polska:ポーランドに住んでいる日本人の方の詳しいページ。ウェブログや掲示板、様々な名所についてのページもあるのでポーランドへ行く前に見てみたい。日本語。
- http://www.dict.pl/plen:オンライン英ポ辞書。
ポーランドについての面白いホームページを持っていますかまたはご存知ですか?その際には住所を知らせてください。確認した後、ここにリンクを入ります。商業上のホームページはお断りです。
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