マケドニアについて


一般的な情報 | 自然 | 歴史 | 旅行案内 | リンク集

一般的な情報

国名

マケドニアの国旗Република Македониjа (レプブリカ・マケドニヤ)。日本語で「マケドニア共和国」。ローマ字で「 Republic of Makedonia 」。しかし、国連や五輪大会などの国際的な連合やイベントなどの場合には、この国名の使用は禁止されている。そのとき、マケドニアの公式の名前はFYROMだ。その略語の意味はFormer Yugoslavian Republic of Makedonia (旧ユーゴスラビアのマケドニア共和国)という長い国名だ。それの理由は南の隣国ギリシアだ。ギリシアには同名の州があり、親マケドニアの運動はギリシアのマケドニア州とマケドニア共和国との統一を推進するおそれがある。そのため、マケドニアはその国名を使うとギリシアは北の隣国をボイコットすることを威嚇した。

面積

25’000 km&sup2 弱 ― (青森県+岩手県の面積と同じ)

人口

210万人以下* (2003) – (名古屋と同じ)

民族

マケドニアの地図:クリックすると好きな場所へ行ける

マケドニアの地図:クリックすると好きな場所へ行ける

マケドニア人 (三分の一)、アルバニア人 (約23%)、トルコ人 (4%)、ジプシー (2.2%)、セルビア人 (2.1%) など。しかし、それは1994年のデータで、 大規模に変化したおそれがある。 *

宗教

マケドニア正教: 約67%、ムスリム 30%、その他 3% *

時差

日本より8時間遅れ。サマータイムがあるので、4月の下旬から10月の下旬まで(大体その月の最後の土日の間の夜から) 時差は日本より7時間遅れるようになる。隣国のブルガリアと一時間の時差(遅れ)があるので入国するときご注意。

言語

マケドニア語。 マケドニア語は南スラブ語族の一つで、昔はマケドニア語はただブルガリアの方言だという意見があった。現在には、マケドニア語は自立の言語だという意見は一番有力だ。マケドニア語は東マケドニア語とと西マケドニア語の訛に分かれているが、その差はそんなに大きくないらしい。マケドニアではキリルの文字が使われているが、ロシア語・ブルガリア語などで使われていない文字もある。全部で31字がある。他のキリル文字を使っている言語であまり使われていない文字は次のようだ(カッコの中はその小文字):

  • Ѓ (ѓ)「ギャ」・「ギュ」・「ギョ」に入っている[ gy ]という発音。
  • S (s) 他のキリル文字を使う言語であまり使われていない。マケドニア語でもあまり見えない文字だ。発音は[ ds ]で、カタカナで「ドゥザ」の書き方は一番近い。
  • J (j) 旧ユーゴスラビアの諸国の言語だけに使われている。英語の[ y ](ヤ・ユ・ヨ)と同じ。
  • Љ (љ) ”L”とキリル文字の軟音記号の組み合わせ。ローマ字で[ lj ]、カタカナで「リャ・リュ・リョ」と書かれている。英語の”Million”の中の” lli ”と同じ。
  • Њ (њ) ”N”とキリル文字の軟音記号の組み合わせ。スペイン語の[ ñ ] と同じで、カタカナの「ニャ・ニュ・ニョ」と同じ。
  • Ḱ (ḱ) ”K”とキリル文字の軟音記号の組み合わせ。ローマ字で[ ky ]、カタカナで 「キャ・キュ・キョ」と書かれている。
  • Џ (џ) 英語の[ j ]と同じぐらい。”John”(ジョン)の”J”と同じ。

この特殊文字があるために、他のキリル文字を使っている言語の[ я ](ヤ)、[ ю ](ユ)、[ щ ](シュチュ)、そして[ ь]と[ ъ](軟音と硬音記号)は余計になる。ロシア語またはブルガリア語などを少しできる人はマケドニア語を簡単に習える。例を挙げると、ブルガリア語で「ありがとう」は[ Благодаря(ブラゴダリャ)]で、マケドニア語で[ Благодарам(ブラゴダラム) ]だ。ロシア語では「ありがとう」は[ Спасибо(スパスィボ)]で関係がなさそうが、ロシア語の[ благодарить(ブラゴダリチ)]という動詞は「謝る」という意味がある。しかし、特に若者のうち、英語できる人が多い。アルバニア民族の人がかなり多いので、所々ではアルバニア語が優先されているのでご注意。アルバニア語はスラブ語族の言語ではないので、ロシア語などをできても全く助からない。様々なスラブ語での一番大切な単語の一覧を見るため、ここをクリックして下さい

自然

マケドニアというのは、山、山、山と山。山もある。海岸が全くなくて、マケドニアの大部分は600〜900メートルの標高の高原にわたっている。北から南Вардар(ヴァルダル)川は国全体を貫いて流れて、ギリシアのテッサロニキ(サロニカ)でエーゲ海に流れ込んでいる。

マケドニアの南西には二つの大きい湖がある。それはез. Преспа(プレスパ湖)ез. Охрид (オフリド湖)だ。オフリド湖は294メートルの深さでバルカン半島の最深の湖だ。マケドニアの最高峰は北西のТетово (テトヴォ)の周辺で密集している。テトヴォの近くにはШар Планина (シャル・プラニナ ― シャル山脈)が広がっている。その山脈の稜線には、アルバニア国境にある標高2764メートルのГолем Кораб (ゴレム・コラブ ― 大コラブ)というマケドニアの最高峰がある。それより15メートルだけ低い山はТитов врв(ティトフ峰)と呼ばれている。上述の湖の間にある山脈は同じように素晴らしい。その辺はマケドニアの三つの国立公園の一つだ。Тетово(テトヴォ)の西方にある山脈は冬のリゾート地で、リフトなどの様々なウインター・スポーツの設備がある。

 

スコピエから見た Титов врв (ティトフ峰)。多分。

スコピエから見た Титов врв (ティトフ峰)。多分。

 

マケドニアに近い地中海は気候に大きい影響を与える。そのため、マケドニアの夏は暑くて雨があまり降らないが、冬はあまり寒くない。しかし、山のほうには絶対雪が降っている。そのようないい気候と肥沃な土壌のおかげで、ほとんど何でも栽培できる。マケドニアの農業は穀物や煙草、米、綿、キュウリ、トマトなどを生産して部分的に輸出する。地下にも様々な資源がある。マケドニアはクロム、マンガン、鉛、亜鉛やタングステンなどの鉱石を採掘する。但し、マケドニアの地下はいいことばかりではなく、悪いことも孕んでる。それは大地震だ。1963年に、Скопjе(スコピエ)というマケドニアの首都は激しい地震のせいで崩壊された。

歴史

マケドニアは昔から今と同じような弱国ではなかった。世の中で一番有名なマケドニア人は明白にアレクサンドロス大王だ。彼は紀元前4世紀にマケドニアを基地にしてインドまでアジアを侵略した。しかし、アレクサンドロス大王が亡くなった後、継承戦争が勃発して、マケドニア王国は三つの王国に分裂した。それは現在のシリア、エジプトとAntigonos (アンティゴノス)というバルカン半島にある部分であった。アンティゴノスは現在のマケドニアばかりではなく、現ギリシアの大部分を含んだ。ローマ帝国に占領された前、隣国のブルガリアもマケドニア帝国の属州であった。

古代ローマ帝国は紀元前2世紀にマケドニアとバルカン半島の残を侵略して属州にした。ローマ帝国紀元4世紀に分裂してしまったとき、マケドニアは独立を宣言したビザンチン帝国いわゆる東ローマ帝国の属州になった。要するにマケドニアはそれからコンスタンティノープルから支配された。7世紀以来、スラブ人が段々マケドニアで定住した。はっきりいうと、昔のマケドニア人は現在のマケドニア人と全く関係がない ― 現在のマケドニア人はスラブ人の部族だ。マケドニアは9世紀と10世紀にブルガリア帝国のツァー・シメオン、そしてその後ツァー・サムエルに占領され、第一次ブルガリア帝国の政治的且つ文化的な中心になった。第一次ブルガリア帝国の没落の後、隣国のブルガリア・セルビアとオスマン帝国のなぶりものになったといえる。1389年には、オスマン帝国はセルビア帝国コソボ・ポリエ(コソボ野)で壊滅的な打撃を与え、それに従ってマケドニアもブルガリアも征服した。それ以来、マケドニアは500年間にオスマン帝国に支配された。

 

マケドニアでどこにもあるモスク

マケドニアでどこにもあるモスク

 

1878年にはロシアはバルカンの諸族と一緒にオスマン帝国をヨーロッパの占領地から追い払えた。しかし、解放の後は大混乱の時代が始まった。サン・ステファノ条約の結果としてはマケドニアは膨大なブルガリア帝国の一部になった。こういうブルガリアは大きすぎると隣国が決定して、新しい条約を推進した。翌年に結ばれたベルリン条約によって、マケドニアはオスマン帝国に返還された。続いて、マケドニアではИМРО ( IMRO―マケドニア国内革命団体)という独立運動が創立された。その団体は1903年にИлинден (イリンデン)で蜂起を指揮した。イリンデンの蜂起はマケドニア人にとって大切な出来事で、2003年には100年の記念日が大規模に祝われた。しかし、オスマン帝国はイリンデンの蜂起を流血に打倒した。

1912年に勃発した第一次バルカン戦争ではブルガリア、セルビア、モンテネグロとギリシアは全員一致協力してオスマン帝国と戦って勝利を得た。一つの結果としてはマケドニアは再びブルガリア帝国の領地になった。しかし、オスマン帝国を追い払った後、次の戦争は翌年に勃発した。その第二次バルカン戦争のモットは「全員一致協力してブルガリアを叩こう」だった。しかし、その戦争の犠牲者はマケドニアだった。ブルガリアが負けた後、マケドニアはギリシアとセルビアの間に分け合われた。

マケドニアの独立を求めるИМРО( IMRO)は相変わらず活発であって、それからセルビアと戦った。セルビアの応報は激しかった:セルビアはマケドニアの言語や文化、そして「マケドニア」という地名さえ禁止した。それにもかかわらずマケドニアの独立運動は第二次世界大戦にセルビアのティト氏というパルチザンの指揮者と一緒にブルガリアのナチスと戦うことを決めた。

その協力は戦後にねぎらわれた。ティトはマケドニアに新たに創立されたユーゴスラビアの加盟を提供して完備した共和国の法律的地位を確かめた。そのとき、ギリシアは一瞬だけ共産主義の国になって、マケドニアはギリシアのマケドニア州と再統一できることを望んだが、その希望はすぐ崩れた。そのため、マケドニアはユーゴスラビアの共和国の一つになって、やっとマケドニア語を公用語にした。それに加えて、マケドニアは1952年にマケドニア正教の教会を確認した。<

1991年以来のユーゴスラビアという国家連合の没落のとき、マケドニアは国民の多数決を基づいて1992年にベオグラードからの独立を宣言した。ベオグラードの政府はマケドニアの独立を躊躇せず承認してすぐ後にユーゴスラビアの軍隊を撤収した。換言すれば、マケドニアは唯一のユーゴスラビアから平和的に離れた国だ。

ただギリシアはマケドニアの承認を拒んだ。国連に加盟できる前、マケドニアは新しい名前と新しい国旗を定めることを要求したギリシアは、それを押し通すために1994〜95年まで輸入・輸出の禁止の措置を取った。そのため、現在の名前は上述のようにF.Y.R.O.Mになった。しかし、ギリシアとの摩擦はまだ完全に解決されていない。

マケドニアは直接コソボ紛争と絆がなかったが、その紛争はマケドニアに破滅的な影響を与えた。北の隣国セルビアには輸入禁止の措置が取られたので、マケドニアの第一の販売市場は急になくなった。その上困ったことには、数十万人のコソボからの避難者がマケドニアに入ってきた。その避難者は皆コソボに帰ったが、マケドニアにある強いアルバニア人の少数民族との摩擦が残っていた。アルバニア人は特に北西のТетово (テトヴォ)の周辺に居住している。そのアルバニア人は自分の大学やアルバニア語での授業、そして前より大きい政治的な影響を求めた。それが原因で北西部のテトヴォとその周辺で内戦が勃発してしまった。西のアルバニアからはUCK (アルバニアのゲリラ)の戦士が武器を持ってマケドニアに染み込んで、アルバニアの少数民族を救援した。その内戦を一応解決するためには外国からの援助が必要だった。解決するため、ドイツなどの国の軍人がマケドニアへ派遣されて相変わらずそこにいる。

アルバニアの少数民族との問題を近い将来に完全に解決することは無理らしい。宗教に基づいて、アルバニア人の出生率はスラブのマケドニア人より何倍も大きい。もっと詳しく言うと、マケドニア人の出生率は大変に低下してマイナスになってしまった。それは当然ながらマケドニアの人口の割合を変化して、アルバニア人の少数民族は多数民族になる可能性がある。スラブ人のマケドニア人は自分の国で抑圧される心配している。それに加えて、コソボ紛争とギリシアのボイコットのせいで、失業率が35%まで増加して民族の間の摩擦を強化する。

しかし、現在のマケドニアは進歩するらしい。テトヴォを通過したとき、私たちは沢山の新しい工事現場や色々な立派な建物を見た。隣国のセルビアの状況も改まっているので、マケドニアの一般的な状況は良くなりつつある。

旅行案内

前書き

悪いニュース以外にはマケドニアはあまり知られていない国だろう。テトヴォやコソボ紛争に関するニュースが最近多くて、それ以外がは情報が少ない。マケドニアはやや小さい国だが、景色は素晴らしくて、恵まれた場所だ。マケドニアの第一の名所はОхрид (オフリド)だ。オフリド以外には、観光客があまりいない。沢山の旅行者と同じく、私たちもオフリドと首都のСкопjе(スコピエ)だけに行ったが、それ以外の面白いところが絶対あるだろう。短くても長くても、マケドニアに滞在するのはとにかくお勧めだ。

ビザ

日本人はビザが不要になったので、勝手に入国することができる。流石ヨーロッパ。ただ入国するときにパスポートは後6ヶ月ぐらい有効であることにご注意。

お金

マケドニアの500ディナリ

マケドニアの500ディナリ

マケドニアの通過はデナルと呼ばれて、略語は「DIN」だ。2003年には、1ユーロは61デナルになった。要するに2円は1デナルぐらい。インフレは1990年代に激しかったが、最近マケドニアの通過が安定してきた。今では、1・2と5デナルのコイン、そして10・50・100・500デナルなどのお札がある。1993年前のお札は無効になったらしい。首都のСкопjе(スコピエ)と観光客が多いОхрид (オフリド)には普通のクレジット・カードや Maestro と Cirrus などのキャッシュ・カードが使える現金自動支払機があるが、少ないので探さないと見つけれない。

ご注意:マケドニア以外にはマケドニアのお金を両替することはほとんど無理だ。それとも両替所は少ない。スコピエの中央駅さえ、両替所がない。両替する前、レートをチェックしたほうが良い。国境でのレートは比較的に悪くて、首都などで両替したほうが良い。一つの大切な両替所はСкопjе(スコピエ)のバス・ターミナルにある。

物価

Охрид (オフリド)は観光地なのに、宿泊所などはかなり安くて、ペンションなら一泊は一人で350デナルだけになる(約700円)。しかし、首都の Скопjе(スコピエ)はそれと全然違う。ユース・ホステルさえの宿泊代は900デナル以上で(1800円)、それより安い宿泊所があまりないらしい。スコピエには国連や色々な組織のスタッフがよく泊まっているので、スコピエでの物価は非常に高くなってきたという意見がある。食べ物などは同じように高い。それでもマケドニアは比較的に安い国だが、ブルガリアから入国する人はまず「高いな!」と思ってしまう。交通費は比較的に安いが、国際列車は当然ながらかなり高い。

往路

マケドニアへようこそ!

マケドニアへようこそ!

マケドニアにはバスや列車、飛行機などで行ける。ビザが必要な隣国がないので、どこからでも勝手に入国することができる。日本からの直接便がないが、ヨーロッパの首都から色々のスコピエとオフリド行き飛行機がある。特にオーストリア、ドイツとイスタンブールからフライトが多い。

ヨーロッパの主要都市からマケドニア行き長距離バスがある。バスで行くのは一番大変かもしれないが、それは多分一番安い行き方だ。例を挙げると、ソフィアからスコピエの直行のバスの所要時間は約6時間で、運賃は20レヴァ(約1200)だ。アルバニアコソボ、そしてセルビアへの直行バスもある。国内鉄道はあまり発達してないし、全部で700キロの鉄道しかない。ほとんど唯一の国際列車はクロアチアの首都Zagreb(ザグレブ)からセルビアの首都Београд(ベオグラード)経由ギリシアのエーゲ海の汀にあるΘεσσαλονικη(サロニカ)まで行く。その急行はやや早くて比較的に安い。寝台もある。但し、「サロニカ」(別名テッサロニキ)は時刻表などでどこでも書いてない!サロニカはマケドニア語でСолун(ソルン)と呼ばれているので、時刻表を見ても切符を買うときにもその名前だけが使える。Shqipёria(アルバニア)ブルガリアからは列車がない。

もちろん、でもマケドニアへ行ける。中央から行くと、チェコまたはオーストリア、そしてハンガリーセルビア経由行ける。北アルバニアから入国することは危険らしい。それに加えて、コソボには危ないところがまだあるので、行く前に最近の情報をチェックしたほうがいいかもしれない。

国境通過点

南の隣国ギリシアとは四つ、東のブルガリアと三つ、北のセルビアコソボ含み)と六つ、そして西のアルバニアと四つの国境通過点がある。様々な情報によって、コソボ経由セルビアを入国することは止めたほうが良い。三つの国境通過点について:

    • Гюешево (ギュエシェヴォ)→ Деве Баир (デヴェ・バイル)

はブルガリアの首都София(ソフィア)とマケドニアの首都Скопjе(スコピエ)の間の一番短いルートの途中にある。 検閲が厳しい。バスを降りて開いた荷物の前に整列。いじめみたい。しかし、検問は外国人の旅行者に全く興味がない。

    • Табановце (タバノフツェ)→ Прешево (プレシェヴォ)

セルビアの首都Београд(ベオグラード)からの一番便利な国境通過点。セルビアを入国する前、短い尋問があるが、それ以外は列車での通過は無難だ。

    • Свети Наум (スヴェティ・ナウム)→ Tushemisht(トゥシェミシュト)

オフリド湖の南岸にある通過点。通過点の前にいたのに、残念ながらアルバニアを入国する時間がなかった。北のОхрид (オフリド)からはバスが直接に通過点まで行く。最初のアルバニアの町Pogradec(ポグラデツ)は8キロぐらい離れている。ビザは不要だが、入国料金はかなり高い。

国内移動

鉄道があまりないので、バスで行くのは一番快適だ。マケドニアの長距離バスはだいたいやや新しくて早い。ギリシアのΘεσσαλονικη(サロニカ)方面の高速道路、そしてТетово (テトヴォ)からГостивар (ゴスティヴァー)までの高速道路は有料だ。メーン・ロードの質はだいたいいい。

食事

バルカン半島にいるとすぐわかる:フライパンで焼いた肉。焼き網で焼いた肉。焼いたひき肉。等など。そして付け合せとして油っぽくて弛んでいるポテトフライ。ブルガリアの有名な沢山の羊のチーズがのっている ショプスカ・サラタはマケドニアでも大人気だ(参照:写真)。 焼いたひき肉のチェワプチチとトルコにもよくあるブレクというチーズまたは肉が入っているパスペーストのロールもある。飽きるほど肉を食べた人はどこにもあるイタリアン・レストランにも入れる。しかし、マケドニアでは妙な癖がある―それはピザにもパスタにも沢山のサワー・クリームを載せることだ。一般的にいうと、料理は他のバルカンの諸国と同じ。例外はОхрид (オフリド)の地方だ。湖にあるので、オフリドだけにはマス料理が多い。しかし、注意したほうがいい ― 値段は量によって違うので、メニューに書いてある値段は料理値段ではなく、10グラムまたは1グラムずつの値段で、すごく高くなる可能性がある。

 

伝統的なマケドニア料理

伝統的なマケドニア料理

 

他の国にもあるソフト・ドリンクやコーヒー(トルコ風またはエスプレッソとして)以外には、スコプスコ・ピヴォ(スコピエのビール)というマケドニア製のやや美味しいビールがある。マケドニアの火酒はラキヤというブドウから醸造されている強いアルコールだ。ラキヤはブルガリアでおいしいが、マケドニアのラキヤは真にまずい。マケドニアは赤ワインを作る。その内、本当に美味しいマケドニア製のワインがある。

リンク集

マケドニアについての面白いホームページを持っていますかまたはご存知ですか? その際には住所を知らせてください。確認した後、ここにリンクを入ります。商業上のホームページはお断りです。 メールのリンクは左側のメニューに入っています。

トップページへ戻る

1 comment to マケドニアについて

Leave a Reply

You can use these HTML tags

<a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>