シャロム=ヘブライ語での挨拶の言葉 旅人の中近東の迷い方 マルハバ=アラブ語での挨拶の言葉

国名:
ヘブライ語で「イスラエル」
[Ißr'l]
Medinat Yisra'él
国家 イスラエル
国旗:
イスラエルの国旗
イスラエルの事実・観光案内
面積:
人口:
首都:
言語:
ビザ:
通貨:

両替レート:
一日間の費用:
一番安い宿泊:
出入国:


国内移動:

21,946 km² (九州の半分)。その内、7,433 km² は占領地(西岸・ゴラン・ガザ)
約600万人(九州の4割)、プラス200万人のパレスチナ人(パスポートを持ってない)
Yerushalayim (エルサレム)。政府の一部はテルアビブにある
新ヘブライ語(イヴリト)、アラブ語。その上、ロシア語は英語より普及している。
ビザ不要、3ヶ月滞在制限
新イスラエル・シェケル(New Israelian Shekel, NIS)。1NIS = 100 Agorot。
参照: 20シェケルのお札の写真
2000: 1 € = 3.5 NIS / 2004: 1 € = 5.5 NIS(100円≒4.5シェケル)
70NIS 以下は難しい
20 NIS 以上
船、飛行機(直行便がない!)または上陸。ラフィア経由エジプトへ行くと35ドル出国費。
エイラット経由ヨルダンへ行くと64NIS出国費。
ベングリオン空港では出国費も空港税金もない
列車がほとんどないのでバスはベスト


 第1日: テルアビブ → ホロン CholonTel Aviv
朝3時テルアビブ に到着したが、荷物はこなかった。その為、KLMというオランダの航空会社に化粧 ポーチと約500NISの小切手をもらった。それはありがたかった。空港からテルアビブの 都心上がりの始発(222番のバス、16NIS)は朝4時に出発する。首都の都心に密集 しているホテルのうち、色鮮かなGordonホステル(共同寝室で1泊35NIS、 学割3NIS)がある。雰囲気は70年代のようで、音楽はいつもうるさい。自己陶酔している ような人が結構いるにもかかわらず、いいところだ。町の真中にあり、バルコニーから海が見えるし、 台所さえ付いている。ホテルのチェックイン時間は朝10時なので、私はその時間までテルアビブを 散歩した。テルアビブは近代的な町で、かなり物価が高いところだ。ごく最近作った町ので、 見所は非常に少ない。
ずっと前ヘムダトというイスラエル人と文通していた私は彼女に電話して、 夕方一緒にホロンという首都の郊外にある町へ行って、そこに泊まった。 その家族の心のこもったもてなしはありがたく思っている。

ヤッフォの旧市街と港

ホロンの住宅地と掩蔽壕
→上へ戻る←




第2〜4日:テルアビブ → ヤッフォ YaffaTel Aviv
またテルアビブへ荷物を取りに行った。本当に次の飛行機で着いたのはよかった。 そのあとヘムダトとテルアビブと ヤッフォを散策した。 ヤッフォという町は首都と一体となってきたけれども、都心はテルアビブと逆にものすごく古い。 たくさんの教会とシナゴーグ、モスクが平和的に相並んで存在している。それ以外、きれいな 公園やバザール、小さな漁港なども一見に値するものだ。

第3日
シャバットと呼ばれているユダヤ教の安息日だ。この日は他の国の日曜日 と似ているけれども、ユダヤ人にとってルールが多い。シャバットは金曜日の日没ではじまり、 土曜日の夕方三つの星が見えるようになるまで続く。そのときに火をつけることは禁止され (というのは料理を作ることも電気器具を使うことも禁止)、乗り物を使うことはダメだ。 その為、タクシー以外は交通機関が動かないし、会社や商店とたくさんのレストランは営業 を止める。シャバットのとき読むことは許され、書くことは禁止されている。歩くとき 財布などを持って行くことはダメだし、電話も使えないようになる(休日なのでまともな ルールではないだろうか)。要するに、活発な旅行者にとってシャバットはかなり不便だ。 イスラエルのユダヤ人は三つのグループに区分することが出来る。一番目は、自分の宗教に あまり構わない人で、当然シャバットのルールを守らない。私を招待してくれた友達の 母親はそういう人だ。二番目は宗教に対して保守的な人で、シャバットを守っている。 私の友達はそういう人だったので、母親と少し摩擦が生じているようであった。三番目は 正統信仰の人で、妥協せずにルールを守っている。但し、その人達は首都ではなく、 殆どエルサレムのほうに住んでいる。
シャバットのため、またヤッフォをずっと散策したが、そこには見所が多いので、 飽きてしまうことはなかった。

第4日
またテルアビブへ行って、エジプトの大使館にパスポートを受け取りに行った。 そのあと、郊外にある大学のキャンパスに入っている「ディアスポラ」(ユダヤ人の離散) 博物館を見に行った。料金は20NIS(学割あり)で、ローマ時代からナチドイツの 大量虐殺までのユダヤ人に関する情報が豊富だ。夕方は Gordon ホステルの屋上にあるバーで 過ごした。そこではマリファナがすごくはやっているのに少し驚いて、私と同様にビールで 満足している人は少なかった。夜でも気温が高いので、屋上に寝袋で寝るほうが部屋より絶対いい。

テルアビブ湾の夜景

テルアビブのビーチ

ヤッフォの旧市街
→上へ戻る←


国名:
アラブ語で「エジプト」
[masr]
al-Gumhuriyya al-Misriyya al-'Arabiyya
アラブ共和国エジプト
国旗:
エジプトの国旗
エジプトの事実・観光案内
面積:
人口:
首都:
言語:
ビザ:



通貨:
両替レート:
一日間の費用:
一番安い宿泊:
出入国:

国内移動:
997,739 km². 日本の2.7倍ぐらい。南東のほうはスダンの占領地。
約6400万人(日本の半分)
Al-Qâhira (カイロ)。国全体の人口の4分の一はカイロとその周辺に住んでいる。
アラブ語。特別なエジプトの訛りがある。英語とドイツ語を話せる人が多い。
ビザ必要、3ヶ月滞在制限・空港で入国ならそこでとりあえず手に入れる。
イスラエルでビザを取るのは一日かかり、料金は50NIS
シナイ半島のみに行く人はビザが不要(参照: ビザの写真
エジプトのポンド (E£)。 1 E£ = 100 Piaster. 参照: お札の写真
2000: 1 € = 3.0 E£ / 2004: 1 € = 7.7 E£ (100円≒6 E£)
約 40 E£
10 E£ 以上
陸海空。直行便もある。タバで出国なら出国費は2E£。
ご注意:シナイ半島にはチェックポイントが多くて、車で行くとワイロがかかることが多い。
列車もあるが、バスとマイクロバス(乗り合いタクシーは一番便利。
→上へ戻る←




 第5日:テルアビブ → カイロ Al QahiraTel Aviv
朝8時45分カイロに出発した。バス代は40ドルで、 予約が必要だ。それに加えて、35ドルの出国費もかかるが、それはかなり高い。 普通のバスだったのに、9人の乗客しかいなくて、そのうち一人もバッグパッカーがいなかったのは 驚くべきことだった。そのバスはずっと海岸沿いに走るけれども、ガザというイスラエルの 占領地域には入らない。南方へ走り続けると、風景はだんだん砂漠らしくなる。国境に 着くと、そのバスはエジプトとガザの間にある中立地帯に沿って走る。出国と入国の手続きは 早くて、特に問題はない。バスを乗り換えて、数時間走り、フェリーでスエズ運河を渡って、 夕方7時ぐらいにカイロに到着した。
バスを降りるとすぐに、ある優しいエジプト人の若者に私が使っていたガイドブックに のっていないホテルをみせてもらった。彼とそのホテルに対して用心深い態度をとったけれども、 そのGreshamというホテルは結構いいところだ。カイロの都心にある タラアト・ハルブという街に近くて、古い建物の中に非常に広い部屋がある。 スタッフはすごく優しいし、バルコニーと暖炉さえあるし。不思議なことに三つのベッドが 入っているシングルで一泊なら25 E£(朝食付き)だ。
忠告第一:特に香水を売っている人の招待に応じないほうがよい。その商売熱心の 人はものすごくしつこくなる。何回も「いいえ」と繰り返しても、この小さな言葉は商人の語彙 に存在していないらしい。おまけに、その香水は臭くて、ぷんぷんしている。何も買わず店 から出るのは困難だ。
忠告第二:エジプト人に「エジプト人は法律によって酒を買えないので、 一緒に免税店へ酒を買いに行ってもらいませんか」と聞かれることがある。一緒に免税店へ行く ことは自分の負担にならないが、実は、エジプト人が自分で酒を法律的に買えないのは嘘である。 それはただ貯金するためので、別に一緒に行く必要はない。
目立っているのは白い制服を着て、自動拳銃をもって、あちこちぼんやりつっ立っている 観光警官だ。彼達のおかげで安全であると感じた。また、「ウェルカム・トゥー・エジプト」 と親切に挨拶する人がものすごく多い。ただ「シュクラン」(アラブ語で「ありがとう」) と返答するだけで、必ず笑顔で迎えられ、話しかけられることが多い。残念なことにその中で 香水を売っている人もたくさんいる。

ガザ地区の国境地帯

まだ不通かな・・・スエズ運河の新しい橋

北シナイのステップと砂漠
→上へ戻る←




第6〜7日:カイロ → ギザ Al Jyza(ギザ)Al Qahira(カイロ)  
私はこの日を完全にエジプト考古学博物館の訪問に捧げた。料金は20 E£ (学割10 E£)で、中に入っている王のミイラ室は別料金(40 E£、学割20 E£)である。 カメラやビデオカメラの持ち込みは有料(10 E£)だ。要するにエジプト考古学だけに 入るならばとISICという国際学生証 (国際学生旅行連ISTCがそれを発行する) は割に合う。エジプト考古学博物館は広くて、全部で10万個以上の陳列品が見られる。 そのため、少なくとも一日間が必要である。だが、陳列品の説明は多くの場合乏しいし、 建物の中も暑い。それに加えて、どやどや団体が入ってきて、絶え間なく大切な見物を遮ている。 それにもかかわらず、ツタンカーメン王のマスクや副葬品などはやはり素晴らしくて、 見るべきものだ。
前の晩知り合ったエジプト人の大学生は私にカイロのイスラーム地区を見せてくれた。 カイロの全ては「イスラーム」の町ので、イスラーム地区という名前は誤解を 招きやすいだけれども、伝統的な地区という意味である。そこには賑やかな市場がある。 モハメドという大学生は素直で、興味深いひとだ。彼によれば、エジプトの一番いい ところは西の砂漠にあるオアシスである。そこに是非行きたかったのだが、私は時間が 足りなかったので行けず、挫折感を味わった。夜中にモハメドとイスラーム地区を横断したあと、 そこに近いリファーイとスルタン・ハサンという二つの大きいモスクへ歩いた。 モスクと隣のシタデルはライトアップされているので、きれいだ。最後に、一緒に伝統的な 喫茶店に入って、モハメドの友達と遊んだ。

第7日
いよいよピラミッドが見れる日だ。ギザまで公共バスで行けば、0.25 E£だけで行ける。 ピラミッドの周辺にはやはり客からやたらにお金をぼる人と店がものすごく多い。 それはすぐ嫌気がさす。ある背が小さくて、太っているエジプト人はビン水を売っていて、 「一本100 E£だけ!」と叫んでいた。だが、頭がよさそうな日本人が別の土産を売っている 人に知りたかったことと違っている言葉を教えたそうだ。その商人は「ここが安い」ではなく、 いつも笑顔で「ここが高い」と叫んでしまった。ピラミッドを見るには20E£(学割15 E£)かかり、 ピラミッドの中に入るにはさらに別料金がかかる。中に入ることは容易なことではない。 中の廊下は這って行かなければならない程狭いし、最も中に入ると温度は段々上がって、 ストーブのような暑さになる。いずれにせよピラミッドは世界の七不思議と呼ぶだけの価値がある。 マムルークに鼻を切断されたスフィンクスも神秘に包まれ、素晴らしいものである。
また暑いカイロに帰ったあと、再びシタデルとその二つのモスクを見に行った。 その二つのモスクは広くて、その間は大変狭いので外から砦の印象を与える。

エジプトの博物館

砂漠はカイロまで広がっている

砂漠に置いてある何らかの廃墟・・・

いや、これはマイケル・ジャクソンじゃない!
→上へ戻る←




第8日:カイロ → シナイ山 Al Qahira(カイロ)Jebel Siinaa(シナイ山)  
カイロは素晴らしい都市だけれども、このうるさくて、スモッグが濃い町から出ることで ほっと出来る。何となく郊外にあるシナイ・バス・ターミナルに辿りつき、シナイ半島にある 聖カトリーナ行きのバスを探した。 遠距離バスは広くて、エアコンがついている。カイロから聖カトリーナまでの約450キロは 35E£になる。このバスはぴたりと出発し、まずスエズ市まで走る。そこにあるバザーで 昼食することが出来る。スエズからスエズ運河沿いに走っているとき、 側から砂漠を耕すらしい巨船が見える。巨船は1キロずつの間隔をおいてスエズ運河を抜ける。 バスはスエズの北部にあるトンネルを横断して、そのあとずっと紅海の海岸沿いに南へ走る。
いつしかバスは海岸から離れ、シナイ半島の中部に続いている。バスの中ではエジプトの 映画が上映されている。皆のエジプト人は時々けたけた笑うので、楽しそうな映画だ。 しかるに、私の上にある壊れたスピーカーのせいで楽しくなく、耳を聾する騒音を出す。 今まで速く走ったバスがシナイ半島で何回も止まって、至る所から乗客が乗り込む。 そのため、最後の100キロはかなりかかり、聖カトリーナに近い交差点に着くと、 もう夕暮れだった。私以外、二人の日本人の旅行者が降ろされ、バスの乗客のエジプト人は 山の中に入る道路を指さして、「ゼアー、ホテル!」と言った。私と同様にまごまごしている 二人と一緒に指させた道路を15分以上歩くと、目指したホテルまでではなく、 ただ修道院まで続いている道のようなと気がした。修道院には泊まることができるけれども、 3人部屋に一泊は30ドル"だけ"だ。それは高すぎるので、3人でまた交差点へ戻り、暗闇の中村に入った。 そこには、高いホテルが多いけれども、安宿は一つしかない。それはEl Fayrouz というホステルで、基地みたいな所だ。面白い12人のザコ寝の部屋が一人で15 E£である。だが、 私達3人はそのとき唯一の客だったので、スペースがたくさんあった。

カイロを貫流する世界の最長の川ナイル

シナイ半島の南部の砂漠
→上へ戻る←




第9日:シナイ → エイラット EilatJebel Siinaa(シナイ山)
ほぼ3時間寝たあと、夜中2時に目覚まし時計が鳴った。ホテルのスタッフは親切なので、 コーヒーと茶をもらえた。シナイ山、 本名ガバル・ムーサという標高2285bの山から御来光を拝むために夜中に登山しようと決めた。 聖書ではモーセはシナイ山の峰で燃やしている藪から語った神から十戒を授けられた。 満月のおかげで登山するときにトーチが必要ではないし、休憩せず1時間半後シナイ山の頂上についた。 途中ではたくさんの観光者にあって、最後の何百メートルは階段だし、上に到着すると皆は汗をかいている。 但し、上は真夏でも震えるように寒い。上には、小さな礼拝堂とキオスクがある。
5時頃になると、澄んだ星空は東方から漸次に薄い青に染まり、それに従って空気はもっと 寒くなるような気がする。淡青色は段々広まり、橙色になるとその山の大きさと周りの きれいな禿山の景色を気づくことになる。6時半頃、東の地平線にはもやが左右に広がり、 小さな部分は火のように真っ赤になる。突然サウジアラビアの山脈の後ろから太陽の 火の玉が浮かび上がる。完全に出るまでは数分しかかからない。周りの山々の長い陰は素晴らしいし、 北には高い山がないため、朝のシナイ山とその周辺は壮麗な景観を呈している。
山頂から谷へ下りるために他のルートを選び、ずっと階段を降りて行った。降りるとき、 高い場所から山麓にある聖カトリーナの修道院がよく見える。中には僧達が暮らして、 観光者は金曜日以外は中に入ることが出来る。下に着くと、腹がペコペコだった。金曜日なので、 是非シャバットが始まるまでイスラエルに入国したほうがいいと思っていた。そのため降りた あと荷物を整備し、バス停でやっと朝食を食べられたあとバスを捜していた。バス停とちゃんと 書いてあるにもかかわらず、バスがぜんぜんこないし、運行時刻表などもない。 これからもバス来ないと言われ、ビジョーという7人乗りの乗合タクシーしか走らない。 しかも、他のヌエイバへ行く乗客がいないのでビジョーは高い。一番目に会ったのビジョー 運転手は厚顔無恥に「ヌエイバまで100 E£だけ」と言ったが、二番目の運転手をかろうじて30 E£まで 値切った。町にも他の乗客がみつけらなかったので、仕方なく一人でそのビジョーに乗った。 途中には、チェックポイントが多いし(特にシナイ半島にたくさんあり、通るのには時間がかかる)、 運転手はよく金とタバコで賄賂を使った。
ヌエイバに着くと、運転手が突然40 E£を吹っかけてきた。 「賄賂いっぱい使ったので、スペシャルプライス」ということのためだ。だが、そんなに払いたくない 私は残念なことにちょうど30 E£を持っていないで、2枚の20 E£札を渡さなければならない。 10分以上身振り手振りで喧嘩すると、釣として7E£をもらったが、それでもう懲り懲りだった。 そして、ヌエイバは二つの市区に分かれているのがすぐわかった。 住宅地と工業や港などがある地域があり、5キロぐらい隔てている。タバ行きバスは都心から出るけれども、 港の方で降ろされてしまった。都心までタクシーしか走らないので、タクシーを拾うと、 また「100 E£」と言われてしまった。私は「近いから2 E£しか払わない」と答えると、 彼はにやりとして、納得した。バス停はあるホテルの前にあり、当然に運行時刻表がない。 ホテルの前に座っている警官に聞くと、タバ 行きバスは一日に一本だけらしい。このバスは毎日12時出発しているけれども、もう12時15分なので、 失敗した。また、運がいい場合には他の乗客が乗っているビジョーをみつけられ、20 E£程で 行けるだろうと警官が述べた。じりじり照りつける太陽の下、タバ方面の道路へ走り出した。 突然運転中のビジョーから誰かが「タバ!」と叫んだ。値段に聞くと、20 E£と言われたので 夢みたいであった。イスラエル人がもう5人乗っているので安かった。そのタクシーは直接に 出入国点まで走った。そこで土産を買いたかったが、店がないのですぐイスラエルに入国してしまった。 簡単な手続きのあと、バスでエイラットというイスラエルの 唯一紅海にある町の都心へ行った。そこに、Springホステルという 安宿があり、エアコンがついている共用寝室に一泊30NISで、そのホテルは広くて、 清潔なところであり、バーとか、インターネット、プールなども入っている。やっと眠れた。
この日の写真がない。その理由:第11日を参照!
→上へ戻る←




第10日:エイラット Eilat
またシャバットという日なので、よかれあしかれエイラットに留まることにした。 この都市はつまらないが、シャバットという日なので当然バスが動いていない。 そのため町を散策し、紅海で水浴びをした。唯一の面白いものは町の真中にある空港である。 空港は町より早く建設されたので、現在は都心にあり、危なそうだ。夕方はパブに入り、 色々なイスラエル人とロシア人と知合いになった。 この日の写真がない。その理由:第11日を参照!
→上へ戻る←


国名:
アラブ語で「ヨルダン」
[álHurdun]
al-Mamlaka al-Urdunniyya al-Hasimiyya
ハシミテ王国ヨルダン
国旗:
ヨルダンの国旗
ヨルダンの事実・観光案内
面積:
人口:
首都:
言語:
ビザ:
通貨:
両替レート:
一日間の費用:
一番安い宿泊:
出入国:




国内移動:

97,740 km²(西岸を含む)。日本の4分の一ぐらい。.
約490万人(四国より少し多い)。その内、数100万のパレスチナの避難者がいる。
'Ammân (アンマン)。人口の4分の一ぐらいは首都に住んでいる。
アラブ語。パレスチナ・ヨルダンの訛りがある。英語ができる人はやや少ない。
日本人はビザが不要(それ以外10JDで、国境で受け取れる。参照: ビザの写真
ヨルダン・ディナール (JD). 1 JD = 100 Piaster (別名: Qirsh) = 1000 Fils. 参照: お札の写真
2000: 1 € = 0.65 JD / 2004: 1 € = 0.88 JD(100円≒0.77 JD)
都会なら約 10 JD 以上
2 JD
陸。空。日本からの直行便がない。
ご注意: Allenby 橋というエルサレム行き道路の通過点は不通になる可能性がある。 イスラエルから入国した人はシリアとサウジ・アラビアへ全く行けない。 サウジ・アラビアのビザはものすごく手に入りにくい。シリアのビザはヨルダンでもらえない。 イラクとの国境を越えるバスがあるが、イラクの状況は不安定なので行く前に現況を調べたほうがよい。
鉄道がないのでバスと乗り合いタクシー
→上へ戻る←




 第11日:エイラット → ワディ・ムーサ Wadi MusaEilat
シャバットが終わったので、やっとこの町を離れることが出来る。そのため、 国境通過点行きバスについてバスターミナルへ聞きに行ったけれども、このバスの 路線は少し前に停止されたと言われた。それは不幸第一であった。不幸第二は、 悪い地図によれば町を横断して、海岸沿い2キロ程歩くと、国境通過点へ行けると 書いてあったが、1時間半ぐらい歩くと、国境通過点ではなく、軍隊の基地に着いてしまった。 左右には「地雷に注意」というサインが書いてあり、早く離れたほうがいいと感じた。 郊外から紅海のエイラット湾の写真を撮りたいと決めた私は、一生懸命荷物をぜんぶ 引っ掻き回したが、カメラはみつけられなかった。それは不幸第三であった。 追悼文:このカメラは5年間ぐらい誠実な忠僕であったし、いつもきれいな写真を撮ってくれた。 よく考えると、カメラは多分あるエジプトのビジョーの中に置いて忘れてしまった。 不幸第四は、カメラの中には約35枚のシナイ半島と登山・日の出を撮った写真が入っていたということだ。 それはカメラの喪失と同じぐらい不愉快な出来事といえる。
ものすごく暑い上に、カメラをなくしてむくむくしながらエイラットに歩いて帰って、 80NISで安ぴかのカメラを買った。もっといい地図を見て、やはり国境通過点までは歩けない ことを確かめた。そのため、12NISでタクシーで国境まで行く。私以外人がいないので、 徒歩で国境を越えるのはあまり時間がかからない。 ワディ・アラブというイスラエルのエイラット市とヨルダンのアカバ 市の間にある国境通過点は砂漠にあり、アカバの都心までタクシーしか走らない。 そのタクシーの値段は法律で決められ、4JDだ。バスターミナルに着くと、 ある人が「10分後ペトラ行きミニバスが出発する」と言った。アカバに泊まるかすぐ ペトラへ行くかと少し躊躇したが、ガイドブックによると見所があまりないので、 すぐペトラへ行くことにした。ペトラ行き普通のバスは3JDかかり、ミニバスは5JDである。 だが、途中でたくさんの人が降りたので、1時間ぐらい走ると、私は突然唯一の乗客になった。
ワディ・ムサというペトラに近い町までの景色は思った 通りにきれいだし、唯一の乗客なので、そのバス移動を充分に味わった。運転手と話したとき、 彼はホテルの名前を聞いて、直接その前に止まった。Mussa Spring ホテルには、 暫定的な屋根に覆われている屋上に寝るのは2JDで、スタッフの兄弟達はものすごく親切な人だ。 ホテルは山上にあるので、夜には涼しくなる。それに加えて、両側にはモスクがあり、 朝早くうるさくなる。
午後ワディ・ムサの市内でやっと食事して、散歩したが、周辺と対照的につまらないところである。

エイラット湾とヨルダンの国境

アカバの周辺にあるワディ

ワディ・ムーサという小町
→上へ戻る←




第12日:ぺトラ Al Petra'
サービスとして、ホテルの客は毎日朝7時にペトラ の入り口まで無料で送迎される。ペトラの入場料は一日で 20JD、2日間で 25JD、3日間で 30JD (4番日は無料)になる。入ると、すぐその小道はものすごく狭くなり、深い峡谷に入り、 まわりの景観だけはその高い入場料を適当と認められる。1キロ以上峡谷の中に歩くと、 突然エル・ハズネという宝物殿が目の前に浮かぶ。エル・ハズネというのは盆地にあり、 砂岩に彫刻してあるものだ。時代を超越していて、たぐいまれな建物である。
他の観光者が来る前に、 早く二番目に有名な見所へ行ったほうが良いと決めた。その見所は修道院と呼ばれ、 入り口から一番遠いものである。そこまで行くのが半時間以上かかり、朝早いので土産を売っている人 はまだいなかった。着いたときに一人もいなかったのは幸せだった。修道院はエル・ハズネ より大きいし、周辺の山々は登りやすくて、眺望がいい。すぐ沢山の観光者が着いて、 素晴らしい雰囲気がなくなる。ペトラの領域はけっこう広くて、見所が多い。
魅惑するのは柔らかい砂岩に彫刻され、完璧にできたルームとホールである。あの砂岩は 色の華やかな石であり、藤紫や真っ赤、淡黄色、青などがはっきり区切られている。 午後6時になると、また無料のミニバスでホテルに帰った。全部で11時間ペトラを 見学したにもかかわらず、全て見るのにはほど遠い。

エル・ハズネという宝物殿

ペトラの修道院
色彩が豊富な砂岩は凄い
→上へ戻る←




第13日:ワディ・ムーサ → アンマン 'AmanWadi Musa
朝早くホテルの前に止まるバスでアンマン というヨルダンの首都へ行く予定であった。その移動は約3時間かかり、普通に 2.5JD になるけれども、 運転手は皆の観光者に「3JD 払わないと途中で追い出すぞ」と言ってしまった (ヨルダン人は0.5JD ぐらい払う)。
郊外にあるバスターミナルでは沢山のタクシー運転手で 混雑していた。他の観光者と一緒に市内へのタクシーを共同で使った。タクシー運転手 がちゃんと自動料金表示機を使っているのを中近東ではじめて見て、これで1.2JD になった。 アンマンのダウンタウンにある Cliff ホテルを選び、ガイドブックの評価に よってあまりよくないところであるにもかかわらず、すごくいいホテルであると実証された。 共同寝室に一泊は3.5JD で、一人部屋は5JD になり、そこのスタッフも最高にいかす。
午後はずっと市内を見学していたが、アンマンは170万人程の人口を持つ首都であるのに、 つまらないところだ。ローマ時代の大きい円形劇場とモスク以外は見所があまりない。 だが、商売熱心の人もいないし、売ってるものに興味がない場合にはただ「いいえ」 といえば足りる。それはカイロとぜんぜん違う。ヨルダン人とパレスチナ人は迷惑せずこころ から善良な人なので気に入った。

ペトラの周辺の岩石砂漠

アンマンのローマ劇場
→上へ戻る←




第14日:ジェラシュ → アジュルン 'AjlunJerash
アンマンに残る理由がないので、北約50キロにあるジェラシュ 市へ行った。現代のジェラシュの隣に同名のローマ都市の遺跡があり、料金は5JDだ。 そこにある廃墟はだいたいよく保存されていた。私が今まで見学したローマ時代の都市のうち、 ジェラシュはトルコにあるエフェゾスに次ぐ二番目に一見に値するところだ。
そのあと、アンマンの北西にあるアジュルンに行った。 そこに近い山の頂上には、十字軍遠征のときにイスラムの王様が作った城がある(料金は1JD)。 周辺にはオリーブなどが栽培されているので、城からなつかしい緑ばかりが見える。 両方のところは一日中アンマンから到達しやすいし、バス代は全部で約1JDだけである。 バスが多いし、ヨルダン人に聞くと、正しいバスを捜すのは簡単だ。
夜にはCliffホテルの隣にあるヨルダン・バーという飲み屋に入ってみた。 ビール一本は1.7JDでかなり高い(酒はヨルダンにもぜんぜん普及していないので)。 他の旅行者のグループもいたので、一緒に遊んだ。遅くなると、スピーカーから 「ジンギスカン」の曲で有名な Boney M の音楽が響き始まる。そうして、 ヨルダン人達はいすとテーブルを無視するようにポロネーズを踊った。変な雰囲気になってきたけれども、大変に面白かった。

素晴らしい廃墟の町ジェラシュ

アジュルン要塞からの眺め
→上へ戻る←




第15日:アンマン → イルビッド Irbid'Aman
午前ゆったりとイルビッドという北ヨルダンにある町に移動した。 その大学のため有名な都市には見所がないけれども、北イスラエルに行く人にとって便利な 出発基地であると思う。それに加えて、イルビッドを歩くと観光者が多いアンマンよりヨルダンの 日常生活が見える。暇があるので、インターネットカフェーへ入ってみて、 1時間以上インターネットを使ってもと 0.5JD だけなのは激安だ。
泊まる所は Al-Wahadat al Arabiyya という共同寝室がないホステルで、シングルで一泊は 5JD になる。 私以外、一人だけの客がいて、10日間ぶりにドイツ人にあった。このホステルの設備はオーナーが 創造的にしたものだ。ベドウイン式のティールームなどがある。元々エジプトから来た人で、 ひょうきん者だと言える。時々客に塩が入っているお茶をあげて、「シャワーは隣のモスクに 入っている!」などと言う、面白い人だ。そのホテルのためだけでもイルビッドへ行くのは是非お勧めだ。

イルビッドの中心
→上へ戻る←




第16日:イルビッド → アッコ → ロシュ・ハニクラ Rosh HanikrhAkkoIrid
この日はインターネットで知り合った北イスラエルに住んでいる人と会う約束したが、 金曜日なのでシャバットが始まる前にアッコという町まで移動しなかればならない。 イルビッドのバスターミナルに着くと、ジスル・シェーク・フッセインという国境通過点まで バスが走らないと言われ、共用タクシーを探した。一人の運転手は 5JD を請求した。 高すぎるので、議論して 2JD だけで国境まで走るタクシーをみつけた。降りるとき、 運転手は突然 3JD を請求したが、結局に2JD しか払わなかった。但し、タクシーはちょうど 通過点まで走らないので、一番目のチェックポイントまで歩かなければならいないし、 チェックポイントから通過点まで歩くこともけっこう時間がかかることである。 その辺の国境はヨルダン川に沿って走っている。ドイツ語では「ヨルダン川を(徒歩で)横切る」 という慣用語があり、「死ぬ」という意味である。そのため、出国した後に徒歩で ヨルダン川を越えてみたかったが、やはり禁止されている。多分イスラエル人もヨルダン人も 同じ慣用語を知っているかなと思ってた。イスラエル側までは100bしかないにもかかわらず、 0.3JD でバスに乗らなければならない。それはこっけいだが、仕方ない。 私以外は国境を越える人がぜんぜんいないことは驚くべきことであった。
三回目にイスラレルに入国したあと、国境に一番近い町までどのように行けるかと聞いたが、 やはりタクシーしか走らない。その町はちょっと遠いので、タクシーで約35NISになると言われたので、 ヒッチハイクしようと決め、ヒッチハイクしたいという手振りをする前にある車が止まって、 ちゃんとベート・シェアン という町のバスターミナルまで同乗させてもらった。そこからハイファという中地海にある 都市まで行きたかったけれども、バスがそこまで走らないので、アフラ市で乗り換えなければならない。 途中でガイドブックを調べたら、ベート・シェアンには主要な発掘場があったので、 その町はただ横断したので全く腹が立った。ハイファに着いた後、すぐアッコ行きバスを探した。 アッコ市では、Akko Gate という旧市街にあるホステルへ移動した。 共用寝室は一泊で25NIS、静かな打ち解けた雰囲気である。大きいテラスと台所もある。 アッコに近い町に住んでいるマヤという知り合いに電話して、アッコで会った。
そして、ナハリヤとリバノンとの国境にある ロシュ・ハ・ニクラ というところまでドライブした。リバノンの国境は、ベルリンの壁と同じみたいな感じがする。 その国境は国際連合の軍人しか通過できないものである。そのあと、 マヤの家を訪問して、母親はもともとウクライナの人なので、ロシア語で会話することが出来た。 シャバットなのに、翌日またドライブしようとの約束をした。

アッコの狭い横町の中

アッコの旧市街の調和
→上へ戻る←




第17日:アッコ Akko
1時間以上現金自動支払機を探していて、やっとみつけた。ヨルダンとエジプト、 イスラエルでCirrus・Maestroと呼ばれている銀行ネットワークのカードが普通に使えるにもかかわらず、 シャバットの日は使えない現金自動支払機が多い。その場合は、どこでもハポアリムという銀行へ行ったほうがよい。
その後、アッコの約4000年前建設された旧市街を見学した。 ぐるりと厚い壁に囲まれ、半島にある旧市街には十字軍の砦があり、そのときにアクレという名前で ヨーロッパでも有名だった。その場所を一人で見学することは問題ではない。大きい受話器みたいな ものをもらって、大切なポイントに書いてある番号を入力すると、詳しい説明が聞こえ、 なかなか便利なものである。砦以外の旧市街もけっこう面白いが、狭い横町を塞いでいる 観光グループがかなり気になっている。

残念なことには前の日も風邪を引いた知り合いの健康状態はひどくなって来たので、 会えなくなった。だが、またシャバットなので、アッコに残らなければならない。旧市街は面白いのだが、 その領域は小さいのですぐつまらなくなってきた。そして、私以外はホテルには客がぜんぜんいなかった。 夜中をホステルに近い突堤で過ごし、湾の反対側のきらきらしているハイファという大都市がよく見える。

時計の塔とハン・エル・ウムダン

旧市街の中のミナレット

町の外壁と地中海
→上へ戻る←




第18日:アッコ → ハイファ → エルサレム Yerushalim(エルサレム)Chaifh(ハイファ)Akko
朝早くバスでハイファ へ移動して、時間があるので都心にあるバハイ神殿というバハイ教にとって二番目に 大切な聖域を見に行った(無料)。美しい神殿より周りの豪華な庭は見る価値のあるものだ。 その後、広いバスターミナルで昼食して、屋台のスタッフの皆はロシア人なので、 またロシア語を使えた。イスラエルにはそんなにロシア語を使えるとは思わなかった。
ハイファからバスでエルサレムへ行った。 エルサレムはものすごく歴史的な場所なので、この旅行の残りの時間をエルサレムで過ごしたいと決めた。 バスで行くとハイファから約2時間かかり、バス代は34NISだ。エルサレムの郊外にある バスターミナルから市内バスでダマスクス門へ行って、そこに近い Palm ホステルに宿泊した。 泊り客は少ないので、そこに泊まるのはなかなかいいと思う。
共用寝室は広くて、一部屋ずつシャワーとトイレがついていることを褒めるべきで、 大きい台所には1NISでいつでもコーヒーと茶を頂ける。一泊は25NISで、雰囲気が良いし、 すぐスタッフと仲良くなることが出来る。夕方、一応旧市街の横町を散歩した。 全ての旧市街は厚い壁で囲まれ、横町の大きい部分は屋根で覆われている。 やはりこの町はあらゆる予想を上回る。

ハイファのバハイ神殿

地中海に面しているハイファの中心
→上へ戻る←




第19日:エルサレム ( Al Quds(アラブ語で「エルサレム」) ) Yerushalim(ヘブライ語でp「エルサレム」)
全ての日を旧市街に費やした。レデーメルというルター教会の塔からの展望は素晴らしい (入場料4NIS、学割2NIS)。厳しいセキュリティーチェックを通過すると、 ユダヤ人にとってものすごく大切な嘆きの壁 が見えて、神殿の丘 (入場料30NIS、学割22NIS)にある岩のドームやエル・アクサ・モスクなどの聖域から 特別な雰囲気が出ている。岩のドームは思ったより小さいが、中にも正面にも装飾が豊富で、 華麗なものである。イエスの墓がある聖墳墓教会の中はひどく混雑している。
聖書によればキリストがそこの十字架にかけられ、埋葬されたところである。それに応じて、 巡礼者と観光者がものすごく多い。その教会の中は飾りが多すぎて、いろいろな建築スタイルが混合 されてしまう。ビア・ドロロサ(悲しみの道)はイエスが有罪となったところから聖墳墓教会まで続き、 あまり長くないけれども、印象的なものである。全ての4つの市区(ムスリム・クリスチャン・アルメニア人 とユダヤ人地区)は一見に値し、そんな狭い領域にシナゴーグとモスク、様々なキリスト教派 (プロテスタント、コプト、ギリシアやシリア正教など)の教会は密集しているので、 比類のない場所である。そんなに沢山の宗教がエルサレムで長い間平和的に共存できれば、 全世界も平和的に一緒に暮らすことができる。但し、それは現況を見ると不可能な理想らしい。 私の意見は、エルサレムは一国の領域ではなく、国際都市になったほうがよい。 そういう提案があるけれども、まだ拒否されている。
旧市街にある無数の土産の店は厳粛な雰囲気を高めるとは言えない。 大部分はただ赤ん坊のイエスの人形などのような低俗品物であり、売り手と値引きの交渉をする ことは当然なことだ。だが、販売者は最初からすごく高い値段を言うので、 20%まで値切ることができるにもかかわらず、高すぎる。200NISのランプを150NIS値引きするが、 本当の価値は10NISで、しかもランプの下には「台湾製」と書いてあるところが多い。 但し、誰も気にせず仕方ないから全ての観光者は一生懸命値切ってみる。要するに、 土産の場合はエルサレムの旧市街以外の地区で買ったほうがよい。Tシャツもいっぱいあるのだが、 二つのモチーフを見たときにびっくりした。一つには背景として戦闘爆撃機と戦車の絵があり、 前には大文字で「心配すんなよアメリカ、イスラエルは君を防御してあげる」 (Don't worry America, Israel stands behind you!)と書いてある。もう一つには、 爆笑している人がいて、「中近東で平和!?」と書いてある。悪趣味なものだ。

東エルサレムのパルム・ホステル

旧市街とオリーブ山

ダマスカス門の前の市場
→上へ戻る←




第20日:マサダ → エン・ゲディ → エリコ Ariha (アラブ語で「エリコ」)'in GediMazadh
ホテルでは死海へのツアーが提供されている。そのツアーは死海ばかりではなく、 他の見所も含んでいる。公共バスで死海へ行くのは往復で70NISかかるけれども、 そのツアーは90NISで手ごろな値段である。
そのツアーでは添乗員がいなくて、ただエルサレムから 様々な見所までの移動だけだ。出発は朝3時半で、まずマサダ という死海の南端にある城跡まで走る。その城跡は斜面がきつい山の上にあり、 海面下なので気温は周辺より高いし、必ず水を持参したほうがよい。入場料は20NISで、 登山は約30分かかる。死海は海抜マイナス400bにあり、山頂の平坦地はちょうど海抜0bのところにある。 そこから、また日の出を楽しめた。
次に死海の海岸へ行った。本当だ:泳ぎながら新聞を読む ことが出来る。浮力は非常に強いので、潜ることは難しい。泳げない人は明らかに溺れることはない。 死海の水は石鹸液みたいだから目と傷に入らないように気をつけたほうがよい。そして、 死海の水は呑むと吐き気を惹起する。水泳したあとに必ずシャワーを浴びたほうがいいので、 泳ぐためにシャワーがついている海岸を探すことが必要である。
暑くて、太陽が強く照っているので海岸で1時間を過ごすのは十分だ。続いて死海の海岸にある エン・ゲディ国立公園(入場料20NIS)へ行った。エン・ゲディ というオアシスはエデンの園らしい。砂漠の真中にあり、植物も動物も豊富な谷である。 きれいな滝が沢山あるし、そんなに暑くなかったら数週間を過ごしたい場所である。残念なことに、 バスは1時間しか止まらない。クムランを経て、エリコ 市へ行った。エリコは約一万年前建設された町なので、世界の一番古い都市だと呼ばれている。 それに加えて、海抜マイナス290mのところにあるので世界の一番海抜が低い町である。但し、 見所があまりない。そこには、昼食するためのレストランに休憩して、偶然にもレストランの店長は バス運転手の兄弟だった。だが、そのレストランは法外に高い値段をつけるので、隣のレストランに行った。
聖ゲオルク修道院を通過して、ユダヤ砂漠に入った。 深い峡谷と禿山の風景は息を呑むようにきれいだ。最後のストップはオリーブ山で、 エルサレムの眺望がよいところである。そこには団体旅行用バスがわんさと押し寄せる。 ツアーは約3時に終わって、おすすめだ。

マサダから見た日の出

死海の海岸の塩の殻

エン・ゲディというオアシス

ユダヤ砂漠
→上へ戻る←




第21日:ヘブロン → ベツレヘム Beit Lahm(アラブ語で「ベツレヘム」)Al-Chalil(アラブ語で「ヘブロン」)
ダマスクス門からミニバスでヘブロン市へ行くことが狙いであった。 ヘブロンはヨルダン川西岸のパレスチナの自治区にあり、よく紛争の焦点になるところだ。 そのため、観光者は観光者らしい衣服を着たほうがよいと言われている。 大きい問題焦点はアブラハム・モスクというユダヤ教とイスラム教両方にとって神聖なところだ。 都心には危険な状況があるとすぐ感じる。軍隊がどこにでもいるし、ユダヤ人とパレスチナ人の 地区はすごく高い垣根で分離され、道路通過止めと無数の射撃塔は危険を孕んだ雰囲気を作る。 それに応じて観光者が来ない。そのため、エルサレムと鋭いコントラストをなして本物のバザー やパレスチナ人の生存条件が見える。だが、アブラハムモスクはあまり面白くない。
ヘブロンとエルサレムの間にはイエスが生まれたベツレヘム という町がある。大切な見所なので、観光者がものすごく多い。そこにある聖誕教会は 無神論者にとっても見なければならないものだが、「ラケルの墓」と「ミルク・グロット(母乳洞窟)」 は見なくてもいいものだと思っていた。

ヘブロンのアブラハム・モスク

教会とモスク:ベツレヘムの多様性
→上へ戻る←




第22〜24日:エルサレム、テルアビブ Tel Aviv ← ( Al Quds(アラブ語で「エルサレム」) ) Yerushalim
最後の日。エルサレムは涼しくなってきて、曇りだ。共通バスで郊外にあるヤド・バシェム へ行った。そこにはホロコーストのときに虐殺されたユダヤ人を慰霊するために作った記念碑がある。 色々な博物館と記念碑が入っているけれども、抑留の記念碑は一番感動した。私は国籍を重視 していないけれども、ドイツ人としてホロコーストに対して責任を負う必要はないと思っている。 但し、我が国では再びホロコーストが勃発しないようにしなければならないだろう。
最後にメア・シェリームという敬虔のユダヤ人ばかりが住んでいる地区を見に行った。 シャバットの日にその地区を車で横断すると、住民は卵や石などを投げつける。無数の張り紙 には観光者向きに「ふさわしい衣服を着なさい」や「礼儀正しい振舞いをしなさい」などが書いてある。 その張り紙によって、観光者との間にたくさんの不愉快な出来事があったそうなので、 良心に従うように地区の横町に入らず、大きい道路だけを歩いた。その住民達の世界観を尊重 しているかしていないかと関係なく、メア・シェリームは動物園ではなくて、住宅地である。
荷物を準備するときに航空券がないと気づいてぎょっとした。出発は夜中なので、 問題になると思った。航空会社に電話をかけてみたけれども、もう夜9時なのでやはり誰もいなかった。 どうなるかと全くわからない私はとりあえず空港へ行こうと決めた。 バスターミナルからエルサレムとテルアビブの間にある空港まではバスがもうないと言われたので、 テルアビブ経由で空港へ行くことになった。出発は朝5時半で、航空会社の事務室は出発の3時間前に 開くと言われたから、2時半まで時間をムダに過ごした。2時半になると、航空券のコピーがないので 予約したフライトで行けないけれども、一応翌日のフライトを予約することができると言われた。 だが、そこまで航空券を販売した会社に連絡して、航空券に書いてあるデータを尋ねることが必要だ。

(自由意志からでない)第23日
起きると、突然会社の名前が浮かんだ。会社に電話をかけて、問題を説明した後に 「出来るだけ助けるけれども、金曜日なのでデータはいつ届くのかが不明だ」と言われた。 しかし、同じ日にデータが届かないとまた夜中いたずらに空港に行くようになってしまう。 それに加えて、金曜日なのでシャバットが始まり、引き続いてユダヤ教の正月の祝祭日(二日間)がある。 上述のように、次の3日間は交通機関が動かないし、ホテルやレストラン、店などが開いていない。 そのときにイスラエルにいることは観光者にとって最悪だ。
残り時間はテルアビブを横断無尽に歩いて、証明書がいるかどうかわからないから警察官へ 航空券の盗難届を出しに行った。少しだけホステルで休んだあとに最後のバス(夕方7時) でまた空港に行こうと決めた。しかし、バスがこなかった。バス停に書いてある電話番号 に電話したが、何も知らない秘書しかいなかった。シャバットなので、バスの運転手など のスタッフは携帯電話を使わないので、連絡できないと言われた。
タクシーは高すぎて、出発まで何時間も時間があるので、徒歩で郊外へ行って、 ヒッチハイクしたほうがよいと思っていた。地図なしで2時間以上歩いたあと、 やっと高速道路の交差点に着いた。ちょっと待つと、親切なロシア人が止まって、 空港まで同乗させてもらった。10時に空港に着いたけれども、偶然に航空会社のスタッフに会った。 事務室はまだ開いてなかったのに、その人はデータが届いたかどうかことをコンピューターで 確認してくれた。データちゃんと届いたので、まずアムステルダムまで行けることになった。 アムステルダムからベルリンまではキャンセル待ちになったが、そこまで行けるのは助かった。 航空券をなくしたので、罰金は75ドルだ。空港の中には2機の現金自動支払機があるので、 それを払うのは問題ではないと思ってて、寝袋の中にもぐりこんで、2時間寝た。

第24日(本当に最後の日)
夜中2時に起きて、現金自動支払機に預金をおろしに行った。だが、シャバットなので、 両方の機械ではキャッシュカードを使えなかった。その為、また事務室に行って、 罰金をアムステルダムで払うことが可能かどうかと訊いたが、ムリだった。 75ドルはイスラエルの貨幣で350NISだ。まだ175NISと非常用の蓄えとして35ドルを持ってたので、 35ドルを両替した。そして、ちょうど130NISになった。ぎりぎり次のフライトで行けるようになった。
出国する時に、イスラエルのセキュリティ・チェックはかなり怖くて、 1時間いじょうかかると言われているけれども、10分しかかからなかった。 そして、シェケルもドルも持たずに免税店の前で2時間ぐらい退屈した。 中にも沢山の現金自動支払機があるけれども、全部は同じ銀行の機械なので使えなかった。 5時半に出発して、9時にアムステルダムに上陸した。約5時間ひまがあったので、市内観光をした。 キャンセル待ちだったのに、満席ではなかった。そのためすぐベルリンに行って、 列車で家に帰った。やっとそこに夕方8時に着いた。最後の日々を別にして面白い旅行であった。 だが、次の旅行では必ず航空券をコピーして、持って行く。

同日にイスラエルでは激しい紛争が勃発してしまった。 ヘブロンやエルサレム、ベツレヘムなどでは大変な状況になって、 エジプトとヨルダンとの国境は閉鎖された。それはかなりショックだった。 これから、中近東のニュースをじっくり見て、違う立場から評価しようと思う。
2004年の補遺: 平和の希望は益々消えてしまう。

岩のドーム


嘆きの壁


聖墳墓教会


メア・シェリームというユダヤ人の地区の警告


ヤド・バシェムの抑留の記念碑


東エルサレムの旧市街を囲む外壁


ダマスカス門

→上へ戻る←



© 2004 tabibito