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ЛЬВIВ
: リヴィウ(リボフ)
「高い城砦」から旧市街を覗く
リヴィウ別名リボフ・リヴィフ・レンベルグという西ウクライナの第一都市:この町には 13の劇場とフィルハーモニー、20のギャラリーと博物館、22の研究所とアカデミー、63軒の 教会と2軒のシナゴーグがある。しかし、人口は80万人だけなので、それはかなり高い文化的な密度であるだろう。 沢山の訪問者はリヴィウをチェコのプラハと
→ポーランド
のクラコフという旧市街が有名な都市と比べる。 それは正当な比較であるかもしれないが、少なくとも一つのことは全く違う。プラハとクラコフの 旧市街では観光客は市民達より多いらしい。リヴィウの場合には、観光客はまだ少なくて 本格的な雰囲気がある。しかし、観光客が段々増えてきて、近い将来にプラハなどと同じようになる。
「リボフ」というよく使われている市名はロシア語での名前だ。ウクライナ人はこの町を リヴィウ(またはリヴィフ)と称して、ローマ字で書くと
L'viv
は一番合っている。 古いドイツ(詳しく言うとオーストリア)の市名はレンベルグ。
リボフは昔に
ガリチア
(ちゃんとの名前はガリチア・ヴォルヒーニア公国)の首都であった。 昔のガリチア公国は北西ウクライナ・東ポーランドと現在の
→スロバキア
の小さい一部を占めた。 スペインにも「ガリチア」という地方があるので、間違えないように注意したほうが良い。 ガリチアは独立の国であった時代がない。ガリチアは最初に14世紀から1772年までポーランド王国の 一部で(参照:
→ポーランドの歴史
)、 続いて1918年までオーストリア・ハンガリー帝国の州になった。1918年から1939年まで、 ガリチアは再びポーランド共和国の一部になった。1939年には、ガリチアはドイツとウクライナの間に分け合われ、 そして6年後(ということは戦後)ポーランドとソ連の間に分け合われた。 要するに20世紀はガリチアにとって激動な時代で、結局悲劇的な結末になってしまった。 昔のガリチアの人口は色彩が非常に豊富だった。その地方には、ポーランド・ウクライナ・ ユダヤ・ドイツ・ロシア・タタール・アルメニア・ギリシア・フランスなどの民族の人達が 幾分平和的に共存した。もちろん、宗教の多様性は人口の組合せを反映した。
1918年後の出来事はリヴィウ市とその地方の情景をあとまで残るようにすっかり変えた。 まずウクライナ人はポーランド人を制圧して、続いてはポーランド人がウクライナ人と戦った。 ナチス・ドイツはユダヤ人の人口をガリチアから追放して大部分を殺戮した。戦後、ガリチアに住んだ ドイツ人は追放され部分的に殺された。その後、ポーランドの領域である西ガリチアのウクライナ人が 強制移動され、逆にウクライナの東ガリチアのポーランド人たちがポーランドに追放された。 全般的にいうと、この昔のコスモポリタンなガリチアの人口は大規模に四散され国粋主義化を受けた。 現在のリヴィウとその周辺はウクライナの一番ウクライナっぽい地域で、国粋主義のせいでこの辺でロシア語 を使うと問題になる可能性がある。ともかく、ごく最近ポーランドとウクライナの間の関係を正常化する 趨勢が見える。
リヴィウという町は13世紀半ばにガリチアの王に創設され、王子の名をもらった。王子の名前は「レヴ」 (起源はラテン語の「レオ」、その意味は「獅子」ということ)なので、町の紋章にはライオンが出ている。 中心には小さい山があり、町を覗いて守る城砦を造る場所として使われた。そのため、リヴィウはかなり 早く発達して富裕な都市になった(右側の写真と下の「高い城砦」の説明を参照)。 そのときから、リヴィウはほとんどずっとガリチアの首都であったが、ガリチアはいつも他の国の一部だけであった。 特に帝国及王国君主政体(いわゆるオーストリア・ハンガリー)の時代にはリヴィウはすごく栄えた。 第一次と第二次世界大戦のとき、リヴィウは部分的に崩壊されたが、中心のほうは たいていオーストリア・ハンガリー時代のままだ。
この町の旧市街はかなり小さくて一日間に徒歩で観光できる。しかし、旧市街はただリヴィウの一部。 郊外には、大きな産業地帯や数千軒の醜いコンクリート・ビルがあって、リヴィウの大部分を占める。 それに加えて、2002年に空軍のショーで酷い事故があった空港もある。 オーストリア・ハンガリー時代には町が発達したが、それの一つの偉業は現在に問題になった。 1900年ぐらい、リヴィウの下水・給水施設が作られた。そのとき、その施設は近代的であったが、 現在の施設はそのままで、町の最後の100年間の成長は下水・給水網の過度歪みを起こした。 そのため、長期的な対策が立てられた:世帯に水があるのは毎日朝6時〜9時まで、そして夕方 6時〜9時までだけ。運が良かったら、お湯さえもある。
リヴィウの旧市街全体はユネスコに世界文化遺産として登録されている。市内には、名所がかなり密集して、 見所があまりにも多すぎて、以下は様々の名所についての短い説明だけ:
リヴィウの賛美されているオペラ
中世の旧市街ははっきり他の地区から区切られている。西側には
プロスペクト・スヴァボーディ
― 日本語で
自由大通り
がある。「プロスペクト」という道路の一種は特に東ヨーロッパに多くて、真中には狭くて長い公園がある 大通りという意味。リヴィウのスヴァボーディ大通り沿いには高級ホテルとレストランなどが並んで、 都心の一番賑やかなところだと言える。真中には、
タラス・シェフチェンコ
というウクライナの詩人兼国民的英雄の微妙なモニュメントがある。特に西ウクライナ では無数のレーニンの彫像などはシェフチェンコの彫像に席を譲らねばならなかった(東ウクライナにはそれがあまりない)。 西ウクライナの都心の道路の名前などは同じように変更されて、愛国主義化を反映する。 (シェフチェンコの銅像の
→写真
)
もう一つのウクライナの国民的英雄、すなわち
イワン・フランコ
はリヴィウの一番大きなオペラに 名前を貸す。このオペラのフール・ネームは
バレエ及びオペラの劇場「イワン・フランコ」
。 それは上記のスヴァボーディ大通りの北側にあり、1900年に完了されたものだ。中の装飾はモスクワやオデッサなどの 劇場と同じように華々しいといわれている。ここは有名な歌手などが演奏することは珍しくない。劇場前の広場 は人気のあるミーティング・ポイントで、いつも賑やか。
スヴァボーディ大通りから喫茶店の傍らを通り過ぎて東へ歩くと、旧市街に入る。旧市街の真中には
リノック広場
というところがある。「リノック」はただ「市場」という意味。ヨーロッパの都心の 旧市街には、ほとんど例外なく「市場」という広場がある。リヴィウの場合には、広場の真中には 大きな市役所がある。それは
→ポズナン
や
→ヴロツワフ
などのポーランドの古い町と同じ。 普通は旧市街の市場は都心の一番賑やかなところだが、リヴィウの場合には市場はかなり落ち着いたところで、 上述のように、スヴァボーディ大通りのほうが人がいっぱい。 (参照:市役所の
→写真
)。 リノック市場沿いの建物のうち、16世紀に築かれた家が多くて、様々な博物館がある。私にとって、 真っ黒の建物が一番気に入った。その建物は東側にある4号の建物で、
リヴィウの歴史博物館
に場所を提供する(参照:
→写真
)。 北東の隅には
薬局博物館
がある。昔の瓶や臼など以外には、鉄ワインという伝統的な薬が販売されている。 薬よりただ体にいい飲み物だと言われている。自分で飲んだことがないが、それをお土産としてもらった友達は まだ生きているので安全らしい。リノック広場沿いの建物はうまく保存されて、町の歴史を洞察させる。
リノック広場の南西には
ラテン大聖堂
という大きな教会がある。その教会は14・15世紀に建築された。その 時代にはガリチアはリヴィウを含めてポーランド帝国の領域だった。ラテン大聖堂は元々ローマ・カトリックの教会だった。 リヴィウの教会では、ローマ・カトリックの教会は少ない。全部では22のウクライナ・カトリック、34の ギリシア正教会と5のプロテスタントの教会がある。お好きな宗教どうぞ!
教会についての話を続くと ― リヴィウを歩くと、観光客は否応なしに
ドミニカ教会
に着く。この教会は 旧市街の東側にあり、莫大な緑の丸屋根だけですぐ目立つ(右上の写真の左側に見える)。この教会はソ連時代に 「宗教と無神論の博物館」として使用された。しかし、その博物館の大部分は(残念ながら!?)なくなった。 参照:
→正面の写真
。 ドミニカ教会の隣には本を読んでいる
イワン・フェードロフ
の彫像が立ってある。彫像の周りは 時々中古の本の市場になる。教会から南へ歩くと、中世期の部分的に修復された外壁が見える。
蔦がからむお墓(リチャキフ墓地)
町全体を覗きたい人は
高い城砦
に向かう(ウクライナ語でウィソーキー・ザーモック)。 それはやや大きい丘で、旧市街の北にある。あまり高くないが、上にはすごく大きいアンテナが建ってあるので 分かりやすい。しかも旧市街から丘の上までは徒歩で15分しかかからない。中世期には、ここは 大きな城砦があって町を守った。その城砦は13世紀に建築され、町の創設を始めた。しかし、 城砦からは廃墟しか残らなかった。その代わりに、400メートルぐらいの標高で小さな展望台がある。 そこからは旧市街ばかりではなく、周りの郊外なども見えて、町の広い範囲を理解できる。 天気が良かったら、南方にある森林カルパート山脈の峰まで見える。但し、天気がいい日には そこへ行く人が非常に多くて狭くなる。
一瞬ぐらいアルメニアへ逃げたい人は
アルメニアの教会
へ行く。 上述のように、ガリチアにはアルメニアの少数民族もあった(他国と同じく、アルメニアのディアスポラ {外国へ逃げて少数派を作るということ}が強い)。 このアルメニアの教会はリノック広場の北のほうにあって、アルメニア通りとガリチア通りの交差点に近い。 14世紀に作られた教会が修復されたばかりで、数十年ぶり使えるようになった。 2003年の5月にはこの教会が再開したとき、沢山のアルメニア正教会の高位高官の人が参加した。 建築様式などは本格的で、他のリヴィウにある教会から際だっている(参照:
→写真
とアルメニアについての
→旅行記
)。
リヴィウの名所の内、
リチャキフ墓地
という旧市街から東にあるやや離れているところにある 墓地だ。この墓地はすごく広い範囲に亙って丘と緑が多いところ。そのため、この墓地はちょっぴり迷いやすい。 リチャキフは印象的にリヴィウとガリチアという民族が平和的に共存した国の歴史を物語る。この墓地では、数千の ウクライナ・ロシア・ポーランド・オーストリア・スロバキア・ハンガリー・ドイツ人などは同じ場所で土葬され、 「死神の前では万人は平等である」という考えが浮かんでくる。この墓地の墓はたいてい素晴らしい 芸術作品で、有名な人の墓も多い。沢山の墓は多かれ少なかれ茂って覆われ脆い雰囲気だ。しかし、一般的に 言うとこの墓地は相変わらず整備されて、まだ使用されている。記念碑や立派な家族の墓所、素朴な鉄鋼の十字架: この数ヘクタールの領地を歩くと時間が経つのは早い。目立つことは所々の墓荒らしだ。特に色々なロシアの墓は ただ倒されたまたは墓につけている写真は引掻き傷を附けられ死亡者の顔がわからなくなった。それはもしかして ガリチア風の過去の克服であるだろう!?ともかく、ポーランドはこの墓地で1918・19年のポーランド対ウクライナ 戦争(リヴィウのため)の犠牲者に捧げる記念碑を作る許可をもらった。それは明らかに両国の間の関係の改善だ。 墓地を囲む壁の外側には、長くて傾斜の緩やかな階段がある。その階段のへり石には無数の戦争犠牲者の名前が 彫られてある。
リチャキフ墓地の入場は有料だが、それは誰もコントロールしない(しかも沢山の出入り口がある)が、 その料金は墓地の保存のためであったら払ったほうが良いかもしれない。特にポーランドからの 観光客が非常に多い。その大体年をとったポーランド人はバスで近い
→ポーランド
からここまで来て 親戚などの墓を訪問するだろう。
上述のような名所以外にはただこの町を地図使わず歩くのはお勧め。リヴィウは近代的かつ賑やかな都市だが、 同時に古くて落ち着いたところも多い。ウクライナへ行ったがリヴィウまで行かなかった人は本格的なウクライナ を体験しなかったといえる。この地方は違う国らしくて、オデッサ・クリム・キエフなどと比べられない。
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