→www.tabibito.de/日本語版/ウクライナ


このページを印刷する
КИÏВ

ウクライナ
: キエフ


キエフ
この町は日本語で「キエフ」と書かれているが、それはロシア語の書き方(Киев)の発音。 ウクライナ語の発音なら、「キーウイフ」のほうが近い。キエフというのは、ウクライナの 首都と一番大きい都市。現在の人口は約260万人のキエフは、長い歴史 を振り返ることができる。1500年前、キエフが創設され、 ヴァイキングの一派がスカンディナビアから東ヨーロッパ へ移住してキエフ・ルーシ別名キエフ公国を建てたとき、都のなった。その時代には、 キエフは「都市の母」と称された。キエフはドニエプロ川の畔にある。そのドニエプロ川は 中世のときにスカンディナビアをビザンツ帝国と繋いだ通商路の大切な一部だった。 その為、キエフはすぐ東欧の大切な町になって、現在のロシアの起源であった。 キエフ・ルーシいわゆるキエフ公国は988年以降、ビザンツ帝国からの影響を受けて キリスト教化した。そのとき、特にキエフは指導的な役割を演じた。 しかし、1169年からキエフ公国は益々弱化して、大分進んだスラヴ化と共にモスクワは 東欧の一番大切な都市になった。それに加えて、モンゴル人が1240年にその地方を侵入して キエフを完全に破壊し尽くした。以来にはキエフは現在まで中世期にあった大きな意義を得られなかった。 特にキエフ・ルーシの歴史に興味がある方は →http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/k-arasuji.htmlという詳しいページを参照。
マイダン・ネザレシュノスティ
キエフの中心の賑やかな「独立広場」
現在のキエフは多様性の躍動している大都市だ:教会の金色に輝く丸屋根から郊外の殺風景なコンクリートの 砂漠まで、「マガズィン」というソ連時代の貧しそう商店から 贅沢品のブティックまで―キエフには何でもある。キエフをチラッと見ると、西ヨーロッパの金持ちの大都市にいる 感じがするが、町全体とその市民を観察すると、ヤヌスの頭のようなところだとすぐわかる。

ドニエプロ ロシア語で「ドニェプル」と称されているドニエプロ川はウクライナの一番長い川で、 2200キロでヨーロッパの4番目に大きい川。ドニエプロはロシアのスモレンスク市の近く に源を発して、→ベラルーシを貫いて流れている。 黒海への入り江はチェルソンというクリム半島の西方にある都市に近い。ドニエプロ川はキエフを 西側と東側に別れる。旧市街は西岸沿いの連丘を占めている。ドニエプロ川はキエフの北方と南方で ダムによって堰き止められ、非常に長い貯水池になる(→前書での地図を参照)。 キエフの領域ではドニエプロ川の幅は約1キロで、かなり狭い。しかし、市内にも小島が多い ので、川全体を眺めるのは難しい。 キエフから90キロぐらい川を溯ると、チェルノブイリという原発事故が発生してしまった町がある。 その原子発電所の一部が爆発したとき、風が南から吹いたので、キエフではなく南ベロルシアとロシアの 一部が放射能で汚染された。キエフから350キロぐらい川をくだると、 →ドニエプロペトロフスクというウクライナの三番目に大きい都市がある。参照: →写真

キエフ・パッサシルスキー キエフ・パッサシルスキー、略してキエフ・パッス、はキエフの中央駅で、沢山の旅行者の始点だ。 この駅は膨大な建物で、古くて大きい東側と近代的な西側に分かれている。駅前の広場は 東側にある。そこにはタクシーや地下鉄の駅などがある。西口を出ると、綺麗な正教の教会が目立つ。 両側を繋いでいる通路にはホームヘの階段や待合室、キオスクなどがある。 西側の建物にはウクライナ風のファースト・フードの店がある。その店は絶対避けたほうがいい。 中央駅から西へ行くと、大きな住宅地がある。キエフの中心は遠いので、歩くのはかなり時間がかかる。 地下鉄で行くと、三番目の駅下車。
聖ミハイル修道院
聖ミハイル修道院

マイダン・ネザレシュノスティ マイダン・ネザレシュノスティという広場の名前を日本語に訳すると、 独立広場だ。この広場はキエフの一番真中にあり、様々な古い建物に囲まれている。 残念ながら、沢山の建物はものすごく大きい宣伝で損ねられた(参照:右側の写真)。 多くの建物はスターリン時代に築かれたものだということをすぐわかる。広場には、いっぱいの 噴水や階段、そして大きな記念碑がある。特に夏のとき、この広場は人気のあるデート・スポットになって 賑やかだ。隣には同名の地下鉄の駅があるので、行きやすい。 北から南へ、

ヴォレツィア・フレシチャーティク フレシチャーティク通りは独立広場を横断する、このフレシチャーティクという華麗大通り では銀行やオフィス、高いブティックやレストランなどが並んで、それ以外は郵便局などの大切な設備もある。 この大通りをずっと北方へ歩くと、ドニエプロ川沿いの緑の連丘に入る。

ヴォロディミルスカ・ヒルカ公園 この連丘は首都の「緑の肺」いわゆる緑地帯で、西の部分はヴォロディミルスカ・ヒルカ公園 (ロシア語・日本語でウラジミール丘」と称されている。丘の上から、キエフの東部全体が見える。しかも 森林に覆われているウラジミール丘では大都市の騒音が聞こえなくなって、散歩するためにパーフェクト。 このドニエプロ川を見渡す丘の上、

ウラジミール聖公像 ウラジミール聖公像という記念碑がある。ウラディミール1世公爵(ウクライナ語でヴォロディミル) は988年にキリスト教を国教にして東スラヴという文化圏に大きな影響を与えた。同時に、 モンゴルの騎馬軍がキエフ・ルーシを侵入することがあり、ウラディミールは最初にその攻撃を 跳ね返すことができた(結局にモンゴルの騎馬軍が勝利したけれども)。 キリスト教化が行われたとき、市民の一部はドニエプロ川まで追い出され強制洗礼を施されたという話がある。 中心からドニエプロ川の岸まで行くとき、現在のフレシチャーティク通り沿いに歩くことが必要だ。 「フレシチャーティク」という言葉は「洗礼」という意味で、その時代からフレシチャーティク大通りと 呼ばれた。記念碑の近くにはケーブル・カーがあって、そのケーブル・カーで丘を登ると、大きい修道院に 着く。
ソフィア大聖堂
ソフィア大聖堂

聖ミハイル修道院 その修道院は聖ミハイル修道院 (ウクライナ語のフール・ネームは スヴャト・ミハイリフスキイ・ゾロトヴェルヒイ・モナスティル)というすぐ目立つ 場所だ。その修道院の紺碧の母屋の上には金色の丸屋根があり、様々な白い部分もある。 この微妙な彩りの教会は特に青空のときに素晴らしい。修道院の一部は18世紀に建築されたものだが、 ソ連に行われた対宗教の戦闘に従い、1936年に崩壊されてしまった。 現在見える建物はだいたい1997・98年に再建された。本館以外には、大きな鐘塔も見応えのある。 残念ながら、本館の中は撮影禁止。修道院の一部はその修道院についての博物館。(参照:右側の写真と →スライドショーの写真) 修道院から南へ行くと、

プロシュシャジュ・ミハイリフスカ ミハイロフ広場 という長い広場がある。その広場沿いにはウクライナ歴史博物館などがある。 広場の真中には大きな騎士の想像が立ってある。それはコサックの英雄的精神を物語る記念碑だ。詳しく言うと、 それはボフダン・フメリニツキーという17世紀のコサック人の像。彼は→ポーランドに対しての反乱の先頭にたったが、 ロシアと共に戦ったので、ウクライナは独立を棒に振ってしまった(参照: →写真)。 広場の北側にある紺碧・白・金色の聖ミハイル修道院は南側の緑・白の

ソフィースキー・ソボール ソフィア大聖堂と対照をなしていて、飽かぬ眺め。このソフィア大聖堂は1037年に建築され、キエフの一番古い教会だ。 元々キエフ・ルーシ時代の正教の中心であったので、この教会は同時に同じぐらい大切なビザンツ所謂イスタンブールの →アヤ・ソフィア教会と同じ名前を附けてもらった(ソフィアは ギリシア語で、「知恵」という意味)。現在に見えるものは大体17世紀に築かれ、ウクライナのバロック様式だ。 中には様々な11世紀のフレスコとモザイクなどがある。この教会は外見だけでも妙な緑の屋根のおかげで印象的。 入場料は10グリブナ、撮影許可は別の20グリブナになる(非常に高い撮影許可はウクライナの悪癖の一つ)。
ペチェールスカ大修道院
洞窟大修道院の中のウスペンスキー大聖堂

アンドレイ坂 ソフィア大聖堂の正門から広場の左側のほうへ歩くと、すぐ アンドレイ坂Andrijiwskii Uswis(ウクライナ語でアンドリイヰフスキイ・ウスウィス)という通りがある。 この通りは名前が推定されるように坂がきつい道路で、車などがあまり入らない古い通り。色々な 通沿いの営利美術展以外には無数の露天商人がある。芸術品やお土産などの内、ゲテモノとキッチュが多いが、 中々面白くて趣味がいい絵画などもある。マトリョシュカやチェス盤などの伝統的なウクライナの芸術品なども あるので、お土産を買うために快適(参照: →写真)。

アンドリヰフスカ・ツェルクヴァ アンドレイ坂の真中には遠くから目立つバロック様式のアンドレイ・教会 (ウクライナ語でアンドリヰフスカ・ツェルクヴァ)がある。このバザーのあたりを睥睨するように造られた教会の 屋根の色は微妙な青緑色なのでわかりやすい。アンドレイ教会は1749年に建築され、女帝エカテリーナ2世に捧げられた。 教会の建築家はイタリア人のバルトロモ・フランチェスコ・ラストレッリという人で、サンクト・ペテルブルグにある 有名なエルミタージュ宮殿などを築いた人だ。教会の中では、特に金色が多くて大きいイコノスターズ(正教会だけにある 製造で飾られた壁)はすぐ注意を惹く。外見も教会内装飾も修復されたばかりアンドレイ教会は現在に博物館として 使われている。入場料は10グリブナで、撮影許可は―予感した人がいると思うが―20グリブナ。 参照: →写真

ウィトシュノーウィ・スラウィー公園 ドニエプロ川沿いにずっと南東へ歩くと、 最上級栄光公園(ウクライナ語でウィトシュノーウィ・スラウィー公園)という公園に入る。 真中にはオベリスクのような戦没者慰霊碑がある。ここは第二次世界大戦に戦死した人が追悼されている。 ソ連を侵略したナチ・ドイツは当然ながらウクライナも侵略して荒廃させた。1945年5月9日のナチス・ドイツの 無条件降伏以来、5月9日はソ連時代、そして現在のロシアとウクライナなどでも「勝利の日」という祝祭日で、 相変わらず無数のつわものと戦死した人の家族などが慰霊碑へ散歩して供花する。西ウクライナでは、その日によく 共産主義者とウクライナの国粋主義者の間に喧嘩が勃発する。 参照: →写真

キイェヴォ・ペチェールスカ・ラヴラ 最上級栄光公園に続いて有名な洞窟大修道院(ウクライナ語でキイェヴォ・ペチェールスカ・ラヴラ) という場所がある。この大修道院はペチェルスク地区というキエフの一番古い地区の一つの中にある。 修道院の領域は28haで非常に広い。上述のように、ドニエプロ川の西岸は丘が多くて、昔から小さい洞窟がある。 その洞窟の中には1051年から修道僧が隠遁生活を送って、大修道院を創設した。
ローディナ・マチュ
ローディナ・マチュ ― 母「故郷」
現在には、この大修道院には様々な教会と修道院付属建物が密集している。ソ連時代には、この修道院は 文化財的大建造物いわゆる博物館として本来の目的から外れて使用された。 1988年以降、ペチェールスカ大修道院は新たに修道院として使われ、ロシア正教会の一番大切な巡礼地になった。 所領の真中には、ウスペンスキー大聖堂 (参照:右側の写真)がある。 この大聖堂はナチス・ドイツの占領部隊が爆発されたものだとずっと言われたが、新しい調査によって、 大聖堂を崩壊したのは赤軍だった。聖ミハイル修道院と同じく、ウスペンスキー大聖堂は再建されたばかり。 大聖堂は色々な博物館に囲まれている。その内、読物・印刷、劇場、音楽とシネマについての博物館がある。 このペチェールスカ大修道院は詳細なホームページさえも作った:住所は →http://www.lavra.kiev.ua(残念ながら ウクライナ語とロシア語版しかない)。それに加えて、 →写真を 参照。

ペチェーリ 大修道院の領域の中にはペチェーリ(日本語で洞窟)というところがある。 それは地下にある曲がり角が多くて狭い地下墓地だ。 実は二つの洞窟網があって、一つは「遠い洞窟」、そして二番目はただ「近い洞窟」と称されている。 「近い洞窟」の長さは1.5キロで、「遠い洞窟」より5倍ぐらい長い。 その洞窟には壁龕があって、中には硝子棺が置いてある。そのひつぎには ミイラがある。ミイラは白い亜麻布に包まれているので、ミイラは見えないが形でわかる。 入るとすぐわかるが、この洞窟はロシア正教会の信者にとって非常に大切な場所だ。 静かに祈る巡礼者は恭しくミイラからミイラへ行く。観光客は洞窟の一部に入ることができるが、 自分はこの雰囲気を邪魔しているという気持ちが心に浮かんでくる。

ローディナ・マチュ ペチェールスカ大修道院の隣には「大祖国戦争歴史博物館」という大きな公園兼博物館がある。 対ナチス・ドイツの第二次世界大戦はロシア等で一般的に「大祖国戦争戦争」と呼ばれている (「祖国戦争」という表現もあるが、それは1812年の対ナポレオンの戦争という意味)。 「永遠の炎」などの記念碑以外には遠くから見える「ローディナ・マチュ」(日本語で母と呼ぶ故郷)という 莫大な像がある。像の高さは土台を含めて100メートルを超える。しかもこの「母」は少なくとも 二人の姉妹がある:一つは グルジアの母という→トビリシにある像、そして 二番目はアルメニアの母という→エレバンにある 像だ。母にぞっこん惚れ込んでいたソ連…



宿泊 往路



©2012 tabibito