セルビア


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一般的な情報

国名

セルビアの共和国Србиjа и Црна Гора (セルビヤ イ チョルナ ゴラ)。ローマ字で「Serbia and Montenegro」という書き方。正式の名前はセルビアとモンテネグロだ。日本だけには「新ユーゴ」という新しい通称がよく使われている。セルビアとモンテネグロは二つの共和国の国家連合だ。両国は地位の等しい国だが、その国家連合の政府はベオグラードにあり、セルビアのほうが強いと言える。二つの自治州もあった:Косово (コソボ)という現在に国連に支配されている地方とセルビアの北部のВоjводина (ボイボジナ)。しかし、セルビアは数年前その二つの自治州の自治法的地位を剥奪した。このページはセルブスカ・レプブリカ(セルビア共和国)についてのページだ。ボスニアにはレプブリカ・セルプスかというセルビア人が居住しているボスニアの自治州があり、セルビア共和国と違うのはご注意下さい。他の地方については、モンテネグロとボスニアを参照。

面積

モンテネグロ含み約102,000km² (韓国とほとんど同じ)。 セルビア共和国だけの面積は 88,361 km²(それの4分の三)

人口

モンテネグロ含み約1070万人(韓国の4分の一)* (2003)、コソボを除いてセルビアの人口は750万人(東京より少し少ない)。

民族

約63%セルビア人、16.5%アルバニア人(約100%はコソボに住んでいる)、5%モンテネグロ人、3.3%ハンガリー人、12.6%その他(マケドニア人、ルーマニア人、ジプシーなど)。しかし、このデータは1991年現在で、この間大規模に変化した可能性が高い。*

宗教

65%セルビア正教、19%ムスリム、4%カトリック、1%プロテスタント、11%その他。*

時差

日本より8時間遅れ。サマータイムがあるので、 4月の下旬から10月の下旬まで(大体その月の最後の土日の間の夜から) 時差は日本より7時間遅れるようになる。

言語

セルビアの地図―調べたい場所をクリックして下さい!セルボクロアチア語。隣国のクロアチアには、 ローマ字が使われているが、セルビアとモンテネグロはキリルの文字を使う。セルボクロアチア語は何スラブ語族の言語だ。ボスニアは同じ言語を使うが、クロアチアと同じくローマ字の使用のほうが普及している。書き方以外には、セルビア語とクロアチア語はほとんど同じだが、発音では小さい差がある:セルビアの長い「エ」はクロアチアで「イイェ」と発音されている。例えばセルビア語の” Река ”(レーカ、その意味は「川」)はクロアチアで” Rijeka ”(リーエカ)と発音されている。それに加えて、セルビアの短い「エ」はよく「イエ」と読まれている。セルビアで使われているキリル文字はロシア語とほとんど同じだが、ロシアなどで使われていない文字も色々ある:

  • Ђ (ђ) 日本語の[ ジ ](イをなくして)と同じぐらい。クロアチアとボスニアで「Đ (đ)」と書かれている
  • J (j) 旧ユーゴスラビアの諸国の言語だけに使われている。英語の[ y ](ヤ・ユ・ヨ)と同じ。
  • Љ (љ) ”L”とキリル文字の軟音記号の組み合わせ。ローマ字で[ lj ]、カタカナで「リャ・リュ・リョ」と書かれている。英語の”Million”の中の” lli ”と同じ。
  • Њ (њ) ”N”とキリル文字の軟音記号の組み合わせ。スペイン語の[ ñ ]と同じで、カタカナの「ニャ・ニュ・ニョ」と同じ。
  • Ћ (ћ) 日本語の[ チ ](イをなくして)と同じぐらい。クロアチアとボスニアで「Ć (ć)」 と書かれている。

この特殊文字があるために、他のキリル文字を使っている言語の[ я ](ヤ)、[ ю ](ユ)、[ щ ](シュチュ)、そして[ ь]と[ ъ](軟音と硬音記号)は余計になる。ロシア語またはブルガリア語などを少しできる人はセルビア語を簡単に習える。しかし、色々な言葉は大変違う:ブルガリア語で「ありがとう」は[ Благодаря(ブラゴダリャ)]で、ロシア語で[ Спасибо(スパスィボ)]だ。しかし、セルボクロアチア語で「ありがとう」は[ Хвала(フヴァラ)]だ。様々なスラブ語での一番大切な単語の一覧を見るため、ここをクリックして下さい。特に若者のうち、英語がだいたい通じる。ドイツ語できる人もかなりいる。

*出典:CIA World Factbook   

自然

セルビア共和国は陸内の国で、海岸がある部分は山だらけの モンテネグロ共和国だ。 セルビアの地形を見ると、南部と北部に分かれることができる。その間の境は西から東方へ流れているДунав (ドゥナフ ― ドナウ)川というセルビアの一番大きい川だ。セルビア国内のドナウ川の長さは588キロで、東方にルーマニアとの国境、そして西方でクロアチアとの国境になっている。セルビアの南部はだいたい山地と高原に覆われている。その一部は大きな高原を占めているコソボだ。最高峰は国連の支配下のコソボにある標高2,656メートルのÐeravica(ジェラヴィツァ)山で、コソボの中心にある山だ。 セルビアの北部の大部分は数百の運河が縫って流れる平らだ。その辺の土壌は肥沃なのであるので、北部のほうは穀倉地帯として使われている。それに加えて、少量の石油が採掘されている。 国全体には全部で六ツの10万人を超える都市しかない。その内、南部にあるНиш (ニシュ)、 北端にあるСуботица(スボティツァ)別名 Szabadka (サバドカ)、ボイボジナの州都 НовиСад(ノビサド) や一番大切な役割を演ずる Београд(ベオグラード)という首都などがある。

歴史:

紀元前のとき、現セルビアの領域ではまずイリュリア民族、続いてケルト民族が入植した。古代ローマ帝国は紀元前3世紀にその地方を侵入して、Moesia Superior (メズィア・スペリオル)属州になった。メズィアの北の境はドナウ川だった。紀元395年にはローマ帝国は分裂して、現セルビアはビザンチン帝国、然るに現クロアチアは西ローマ帝国の属州になった。
紀元6世紀以降、スラブ民族の部族はこの地方に定住した。そのスラブ人の部族はスロベニア人、クロアチア人とセルビア人と呼ばれた。895年頃、キリルとメトード僧はスラブ民族のキリスト教化を起こした。1217年には、最初の完全に独立なセルビア王国が創立された。14世紀に、シュテファン・ドゥシャン王の支配下のセルビアは繁栄して、無数の僧院などが創設された。しかし、ドゥシャン王の後、セルビアは益々没落した。Косово Поле (コソボ・ポリエ)ではセルビア王国は1389年にオスマン帝国と戦って敗北した。その敗北はセルビアに現在まで大きな影響を与える。コソボの戦闘以来、セルビアは約500年間オスマン帝国に支配された。1815年には、大規模な蜂起が企まれ、結果としてはいわばセルビアは独立しても同然だった。1829年には、オスマン帝国はセルビアの自治制を法的に確認したが、完全に独立になったのは1878年だった。
1914年、一セルビア人の暗殺者はサラエボフェルディナンド オーストリア帝位継承者夫妻を撃ち殺した。そのできごとは中央ヨーロッパの事態の激化をを招くようなことをした。オスとリア・ハンガリー帝国は暗殺の後に躊躇せずセルビアを占領して第一次世界大戦を誘発した。オーストリア・ハンガリーはドイツと一緒に三国同盟のメンバーとして第一次世界大戦を負けて割れてしまった。それに従って、前のオーストリアの領地スロベニアクロアチア、そしてВоjводина (ボイボジナ)はセルビア、モンテネグロとマケドニアと統一した。南スラブの民族はこういうふうに一つの国家になるのは初めてであった。1929年に、Jугославиjа (ユーゴスラビア)という国名が浮かんできた。「ユーゴ」はスラブ語で「南」という意味するので、「南スラブ国」という論理的な国名になった。
第二次世界大戦中の1941年には、ユーゴスラビアは日・独・伊枢軸を応援することを決定したが、その決定はクーデターを起こした。続いて、ペーター2世はユーゴスラビアの王になって方向転向した。あっという間に、ユーゴスラビアは反枢軸諸国に加盟した。当然ながら、ナチス・ドイツは次第にユーゴスラビアに宣戦布告して侵略した。続いて、ユーゴスラビアは親ナチスのドイツ、イタリア、ハンガリーブルガリアの間に分け合われた。ほとんど同時に、ユーゴスラビアの共産党が立党され、ヨシップ・ブロズ・チトーという指揮者は武装反乱を宣言した。
戦後には、チトーの支配下の共産党は政治権力を握ってまず君主政治を廃止した。続いて、ボスニア、モンテネグロとマケドニアは共和国の法的根拠を受けた(クロアチア、スロベニアとセルビアは最初から共和国であった)。戦前にも共和国ではなかったし、昔のユーゴスラビアの領地ではいという理由を基づいて、アルバニア人の少数民族が居住するКосово (コソボ)とハンガリー人の少数民族のВоjводина (ボイボジナ)は共和国の法的根拠を受けなくて、ただ1974年に自治州に格上げされた。こういうふうに、ユーゴスラビア連邦共和国が生まれた。ユーゴスラビアの第一の都市Београд(ベオグラード)は権力中枢になった。

ベオグラードの市内のNATOの空襲による損害

ベオグラードの市内のNATOの空襲による損害

他の東欧の諸国と対照的に、チトーはソビエト連邦との協力を拒否して、1948年にスターリンのソ連との関係を絶った。そういう態度は冷戦のときにアメリカと西欧の諸国の好みに合ったので、ユーゴスラビアは西欧などから大規模に応援された。それは1980年代まで続いた。要するに、ユーゴスラビアは社会主義的な国家であったので、旧東ドイツの国民は勝手にユーゴスラビアへ行けなかったが、西ドイツからの観光客が多かった。然し、ユーゴスラビアという人工的な形成物は安定しそうだったが、元々もろい国家であったと1990年代からわかってきた。ユーゴスラビアの流血の没落の基礎になったのは遅くとも1986年の出来事であった。勿論、それより古い理由も沢山ある。1986年に、セルビアの学士院はそれ以来もっと大切な役割を演ずるセルビアを求めて、精神的な放火したといえる。翌年に、スロボダン・ミロシェビッチは共産党の党首とユーゴスラビアの大統領になった。ミロシェビッチは国の在り方を親セルビアの国粋的な感想と混ぜた。メーン・アイディアはセルビアを優先するユーゴスラビアであったので、スロベニアクロアチアはその新しい政策を許せなくて殆ど同時に独立を宣言した。当然ながら、経済的な背景もあった。1980年代の不景気中のユーゴスラビアでは、比較的に裕福なスロベニアとクロアチアには反ユーゴスラビアの運動が発生した。独立の宣言の後、事件が次々と起こった。大体セルビアが統率したJНА・JNA (ユーゴスラビア連邦軍)は次第にスロベニアに参入した。10日間ぐらい、様々な小さな戦闘があったが、その後は JNA が撤退して、スロベニアは独立を比較的に被害を受けずに済んだといえるだろう。なぜか軍隊がなくて弱いスロベニアから撤退したのは、ただスロベニアは元々セルビアの一部ではなかったのでセルビア人はあまりこの国に居住していないという理由だった。1992年に、欧州共同体はスロベニアとクロアチアを独立な国として承認して、(やっと!)セルビアに対して武器の禁輸の措置をとった。

但し、クロアチアのほうは何倍も大変だった。独立を宣言した前、民衆のあいだに不穏な空気が渦巻いていた。1990年に、Franjo Tudjman (フラニョ・トゥージュマン)は民主制の選挙で共産党に勝った。次第に、クロアチアに居住するセルビア人は少数民族であると断言したが、そのセルビア人に対して特別権利を認めることを拒否した。要するに在クロアチアのセルビア人の事態は悪化した。悪化した生活基準を基づいて、60万人ぐらいのセルビア人の少数民族は自治州の法的事態を要求した。クロアチアは独立を宣言した上、Krajina (クライナ)地方は勝手にクロアチアからの独立を宣言して自分の自治共和国を創立することを求めた。当然ながら、クロアチアはその自治共和国を承認しなかった。続いて、JNA は18万人の軍人と2000台のタンクで侵入して、状況の激化を推進した。特にクライナ地方とヴコヴァーの周辺のスラヴォニアには激戦が勃発した。例を挙げると、ヴコヴァーは侵略されて前に3ヶ月ぐらい3万人の軍人と600台のタンクを使って包囲された。三ヶ月のあいだには、JNA はクロアチアの4分の一を占領した。その代わりに、クロアチアは国全体にばらばらしていたユーゴスラビアの連邦軍の基地を包囲した。その包囲を終了するため、そのときモンテネグロ人とセルビア人しかいなかった JNA は海岸沿いのドゥブロヴニクを攻撃して包囲した。同時に、JNA は戦闘爆撃機でクロアチアの首都ザグレブにいた大統領を暗殺してみた。クロアチア国内の戦いには、約1万人が戦死してしまった。
当然ながら、セルビア対クロアチアの戦争がボスニアまで拡大してしまった(参照:ボスニアの歴史)。ボスニアは南部のマケドニアと同じく独立を要求した。マケドニアには、セルビア人があまり居住しなくて、元々セルビアの領地ではなかったので、マケドニアは唯一の共和国として平和的に分離することができた。ボスニアはそれと全然違っていた。ボスニアの戦争は非常に残酷な戦いになった。この戦争には、種族ばかりではなく、宗教も重要な役を演じた。チトーの支配下のユーゴスラビアには、宗教も種族もあまり大きな役を演じなくて、皆は殆ど同じ言語で話した。宗教と種族は突然兄弟殺戮と民族浄化の理由になってきたのはボスニア戦争で一番恐ろしくて微妙なものだった。ボスニアの首都サラエボは三年間ぐらい包囲され、サラエボだけには1万人ぐらいの犠牲者があった。セルビアもクロアチアもボスニアの一部を要求したので、長くて凄惨な戦争になった。

空爆の目的になったノビサドの橋

空爆の目的になったノビサドの橋

国連(詳しく言うと国連の委任によりナトー)がやっと戦争に介入したのは1994年だった。ナトーはそのときにボスニアのセルビア人の基地などを空爆した。1995年に、アメリカのオハイオ州でデイトン協定が結ばれた。結果としては一時的な停戦が効力を発して、ボスニアは二つの部分に分かれた。ボスニアの国全体の51%はムスリムとクロアチア人の領地になり(クロアチア人はボスニア人を内戦で戦ったくせに)、49%はセルビア人の領地になった。今でも、ボスニアにはKFOR (国際安全保障部隊)の軍人が配備され、ミロシェビッチは現在にオランダのデン・ハーグにあるICC (国際刑事裁判所)で弁明しなければならない。
ボスニア戦争の後、旧ユーゴの悲劇が続いた。1992年に新しく創立され第三次ユーゴスラビアというモンテネグロとセルビアだけが残っていた国家連合はКосово (コソボ)の自治制という法的事態を破棄した。コソボの人口を見ると、90%はアルバニア人で、昔からセルビア人と摩擦した。特に JNA によるの持続的な挑発はボスニア戦争の後に増加して、1998年にアルバニア人の蜂起を誘発した。結果としては、ボスニアと同じ悲劇的なプロセスが始まった。民族浄化に因る、数十万人のアルバニア人は隣国のアルバニアマケドニアに追放され、所々には殺戮が行われた。当然の帰結として、アルバニア人のUCK(コソボ解放軍というゲリラ)が創設され、紛争に介入した。コソボ紛争の場合には、国連とナトーはボスニア戦争より早く反応した。無数の不成功の威嚇と同じような効果がなさそう商業禁輸の次第に、ナトーは戦争をセルビア自体へ拡大した。山が多いセルビアの地上戦闘を恐怖したナトーはセルビアの各地の産業地帯、橋などの戦略的に大切な場所や JNA の基地などを空爆した。78日間の空襲の後、セルビアの政治は交渉へ向けて軍隊をコソボから敗退した。毎日空爆が続いた3ヶ月の間に本当に変な出来事があった:アメリカの戦闘爆撃機がついうっかりして在ベオグラードの中国の大使館を空襲した。勿論、中国はその攻撃を厳しく批判した。アメリカの謝りは次のようだった: CIA は古い地図しか持ってなかった。次の戦争の前に個人旅行者に頼めば!?「あの、戦争をやりたいんですが、古い地図しか持ってないんですよ!お土産として新しい地図を買ってくれませんか!?そうしたらお前の住宅を爆破しない!本当に!」・・・CIA は本当にそんなにバカだったら、怖いぞ・・・しかし、私は中国の大使館の破壊はついうっかりした出来事であったことを真剣に疑っている。これからユーゴスラビア・セルビアはどういうふうに発達するんだろう。やっとのミロシェビッチの無力化の後、セルビアは経済的且つ民主主義的革命を推進した。但し、Zoran Djindjic ゾラン・ジンジチ大統領の暗殺はセルビアの不安定を裏付けた。ジンジチはマフィアに暗殺されたという噂がある。首都のБеоград(ベオグラード)Нови Сад(ノビサド)を歩くと、近況は大規模に改善したと思いたくなる。しかし、本当の状況はどうだろう。コソボは何の針路を取るか。セルビア人は現在の政府の親ヨーロッパの政治についてどういうふうに考えているか。セルビアを中心にして、バルカン半島は相変わらず一触即発の状態にあると思う。

旅行案内

前書き

5月2003年以降、セルビアの複雑なビザの手続きは廃止されたので、観光客が段々増えてくる(日本人だけがその前にも簡単に入国できた)。ユーゴスラビアの二番目の共和国モンテネグロも入りやすい。モンテネグロにもセルビアにも見所がかなりある。北セルビアのНови Сад(ノビサド)と首都のБеоград(ベオグラード)の市民たちはコスモポリタン且つ親切だといえる。その他の場所の状況はどうになっているだろうか。戦争が終わったばかりで、観光客はベオグラード以外にまだ珍しいものなので、所々で気をつけたほうがいいかもしれないが、ベオグラードとノビサドはとても安全だ。

ビザ

日本人はビザが不要になったので、勝手に入国することができる。流石ヨーロッパ。ただ入国するときに パスポートは後6ヶ月ぐらい有効であることにご注意。 色々な噂を聞いたので、国境で国内移動したら警察で登録しなければならないかと聞いてみた。一泊・二泊だけ滞在すると登録は必要ではないとわかった。要するに同じ場所でもっと長く滞在したら、登録は必要かもしれない。ホテルに泊まると、「滞在確認書」という紙をもらうべき。その紙は出国するときに出さなければならないものだと聞いたが、私たちが列車で出国したとき、それを見たい警備員がいなかった。それにかかわらずキープしたほうがいいかもしれない。

お金

新しいセルビアのお金

新しいセルビアのお金

旧ユーゴには、どこでも同じ通貨が使われた。しかし、ユーゴスラビアの没落と共に、激インフレが始まって、数億ディナールなどのお札が出てきた。インフレが一応終わったとき、Нови Динар (新しいディナール)という通貨が導入されたが、インフレが続いたのでドイツ・マルクのほうが使われた。そのため、「新しい新ディナール」が作られた。それは今ただДинар (ディナール)と呼ばれて、最新のお札には「ユーゴスラビアの国立銀行」ではなく、「セルビアの国立銀行」が書いてある。セルビアのディナールはモンテネグロにもКосово (コソボ)にも無効だ。インフレが完全に止まったらしい。2003年には1ユーロは65ディナールになって、1ディナール=2円とマケドニアとほとんど同じ。1・2と5ディナールのコインと10・20・50・100・200ディナールなどのお札がある。ご注意:インフレが止まったので、やみ両替がなくなってきた。レートはだいたいどこでも同じ。 Београд(ベオグラード)には普通のクレジット・カードやMaestro、Cirrusなどのキャッシュ・カードが使える自動現金支払い機があるが、他の町にはまだあまり普及していないらしい。両替所はあまりない。その代わりに、色々なホテルでお金を両替することができる。ご注意::セルビアのお金はセルビアだけで両替できるものだ!隣国のハンガリーにもチェコにもセルビアのお金の為替は無理らしい。

物価

セルビアは比較的に安い国で、Скопjе(スコピエ)というマケドニアの首都やハンガリーなどより安いとすぐわかる。外国人はホテルでセルビア人より高い値段を払うが、それでも1400ディナール(2800円)で二人で泊まれる ― トイレ、バスと朝ご飯付き。そしてゴキブリ付き。屋台なら、70ディナール(140円)で満腹になるところが多い。交通費:国内バスと列車は中々安い。国際列車なら、値段は当然ながら比較的に高い ― 特にハンガリーまでの急行はびっくりするほど高い。

往路

セルビアまではヨーロッパの諸国からバス、列車、車と飛行機で行ける。ビザが必要な隣国は一つもないので、勝手に入国と出国することができる。日本からの直便がないので、ヨーロッパで乗り換えすることが必要になる。ベオグラードまでは、ドイツのミュンヘンやオーストリアのウィーンなどから飛行機がある。
ヨーロッパの主要都市からマケドニア行き長距離バスがある。バスで行くのは一番大変かもしれないが、それは多分一番安い行き方だ。隣国のマケドニアブルガリアなどへは一日中無数のバスがある。モンテネグロ行きバスは非常に多い。セルビアから直接Косово (コソボ)に入る事はまだ不安で、止めたほうがいいらしい。列車でもセルビアへ行ける。例えば、ブルガリアの首都София(ソフィア)やクロアチアのZagreb (ザグレブ)、ギリシアのΘεσσαλονικη(サロニカ)Скопjе(スコピエ)経由の列車がある。Budapest (ブダペスト)経由のWien (ウィーン)、そしてルーマニアの首都ブカレスト行き急行もある。ドイツのMünchen (ミュンヘン)行き列車は運休しているらしいので、ウィーンで乗り換えしなければならない。マケドニアの首都スコピエからベオグラードまでの列車の運賃は約1800円で、所要時間は9時間半だ。北セルビアのНови Сад(ノビサド)からブダペストまで行くなら、運賃は約3600円で、所要時間は6時間だ。モンテネグロまでも列車があるが、海岸沿いには鉄道がないので、海岸のほうはバスで行かなければならない。Косово (コソボ)までの列車は相変わらず運休している。

国境通過点

アルバニアとの国境通過点があるが、それはモンテネグロまたはコソボ経由だ。それ以外は、ブルガリアマケドニアクロアチア ボスニアハンガリールーマニアへの国境通過点がたくさんある。上述のように、セルビアからコソボを入国することは勧められない

食事

チェヴァプチチプレスカビッツァラズヴニェイチドゥヴェチ ― 焼いた肉の名前が多い。時々チーズまたは野菜で焼いた肉はだいたいまずくはない。副菜はパンまたはご飯だ。焼いた肉以外には、色々なサラダもある。ヨーロッパ人は「セルビア料理」を聞くと、「焼いた肉」と「セルビアの豆のスープ」が思いつく。その有名な豆のスープは一回も見えなかった(別に探さなかったけど)。お菓子もあるが、そのお菓子はトルコのお菓子と同じぐらいで、耐えられないほど甘い。焼いた肉はもう嫌だったら、どこにもあるイタリア料理のレストランに行ける。しかし、セルビアの伝統的な料理なら、本当においしいものもあるので安心していい。ビールやコーヒー、ワイン、そして万国共通のソフトドリンクはどこにもある。セルビアには、ヴィニャクという伝統的なコニャックがある。飲み物は食べ物と同じように安い。セルビア製のビールはややおいしい。

リンク集

セルビアまたは新ユーゴについての面白いホームページを持っていますかまたはご存知ですか?その際には住所を知らせてください。確認した後、ここにリンクを入ります。商業上のホームページはお断りです。

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