旅行記:バルト三国・ベラルーシ

第 1 日


フランクフルト・オダー → ワルシャワ → ビリニュス
Frankfurt/Oder→Warszawa→Vilnius

この旅が始まったのは或11月の灰色の寒い日で、少しだけ雪が降っていた。要するに、普通の人ができるだけ家に残る一日だった。然し、他の人はあまり旅行しない季節に旅をするのは時々面白い。もちろん、旅行をしながら天気がよくなる望みもある。
前にした東欧の旅行と同じく、この旅はまずワルシャワへ行くことで始まった。だからワルシャワへの道は十分分かっている。私たちはまずフランクフルト・オダーというポーランドの国境に接する町で『Berlin-Warszawa-Express』というワルシャワ行き急行に乗った。運賃は20ユーロだけで、中々安いだろう。5時間半後、午後中にワルシャワの地下の中央駅『Centralna』に到着した。次の列車の出発まで3時間以上暇があった。着いた後、まず国際切符売り場でビリニュス行き夜行の切符を買った。その切符の値段は20ユーロ以下だが、夜行なので16ユーロの別料金があって思ったより高かった。11月だったので、その列車は満席だというおそれがもちろんなかった。
日曜日の夕方のワルシャワ中央駅より殺風景な場所がないかもしれない。カトリックのポーランドには、日曜日にほとんど全ての店やレストランは開いてなくて、そこで暇を潰すのは難しい。その駅の近辺にもいいところがなくて、全ての道は氷に覆われて、そして気温はマイナス10度ぐらいだったので散歩するはずじゃなかった。唯一の開いたところはポーランド風のファスト・フードのレストランだった。しかし、あそこの食べ物はびっくりするほどまずかった。夜行で行くといえば、ワイン又はビールを飲みたくなるだろう。だからビールを買おうとしたが、駅にはビールを売る店が一つもない!あるキオスクの人によって、政治は構内の酒類の販売を禁止した。不思議なことに、それでも駅には酔っている人が数年前と比べて減ってこなかった。
やっと9時半になったとき、ビリニュス行き列車が入ってきた。三つの車輛だけ!人気のあるルートではないらしい。車室ずつ、三つのベッドがあったが、乗客が少なかったので二人だけでその車室にいた。車掌は親切な人で、車室は清潔だった。車輛の先端には変な光が見えた。ちゃんと見たとき、炎が見えた。外見だけではその列車は近代的だが、車輛の暖房は石炭で動いている!

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 ポーランド | ワルシャワ

第 2 日


ビリニュス
Vilnius

夜中にいつか国境の警備員が車室に入ってきたが、それは遠い思い出みたいなものだけだった。リトアニアとの時差は一時間で、朝9時前ビリニュスに時刻通り着いた。その日は或11月の灰色の寒い日で、少しだけ雪が降っていた。ドイツと同じ。出発した前、ルートを一応だけ計画したが、途中でベラルーシを横断しようかなと思った。ビリニュスの駅には旅行会社があり、その会社はベラルーシのビザを販売すると聞いた(興味がある方:その会社のオフィスは30号の窓口)。然し、ベラルーシからビザが不要な国に続くと(それはポーランドだけ)、その国への切符または航空券を表せないとトランジット・ビザがもらえない。やはりベラルーシのビザをもらうのは難しい。
そのため、まずビザを買わなくて外に出て、駅に近い安宿へ歩いた。サインがないからそのホステルは分かりにくくて、やっとみつけたとき誰もいないと気づいた。だからバックパッカーにとって有名な Old Town Hostel というところへ歩いた。そこには日本人ばかりが集まった。それに加えて、かなり年上のアラスカから来た旅行者がいた。彼の一番好きなフレーズは ‘Check it out!’ だったので、私たちから check-it-out-man という渾名をつけてもらった。地元はアラスカだから、彼にとって気温はチョードよかったが、私たちにとってマイナス5度の霧は良い天気の定義ではなかった。

ビリニュスの夜景

ビリニュスの夜景

ベラルーシのことは相変わらず頭の後部に入っていた。その為、他の旅行会社に訊いてみた。スタッフは私たちの計画を聞いて、そしてまず『Yes, Transit visa no problem』と言ったが、大使館に電話した後に『やっぱり要る』と言い直した。要するに普通のビザしかもらえない。しかし普通のビザの料金は70ユーロ(約一万円)かかるから高いだろう。と考えてもそんなに簡単にギヴアップできなかった。お連れはそれを確かに予想した。続いて駅へ戻ってパスポート専用の写真を作って、再びお金をおろして旅行会社に戻った。そこで書類を記入して、午後1時ぐらいやっと朝ご飯?昼ご飯?を食べに行った。その後、夕暮れまで3時間しか残らなかった。だから休憩せず町を歩いてビリニュスのハイライトを観光した。ビリニュスは落ち着いたとこで、中々綺麗な町だ。狭い横町が多くて、その代わりに平日にも人が少ない。遇った人は例外なく優しかった。ビリニュスにはロシア語で話せる人が非常に少ないと気づいた。ある長い髭を持ったロシア人だけは私たちとロシア語で喋って、ロシア正教会の修道院は必見なものだと言った。
冬だから、午後4時に暗くなった。だから博物館に入ろうと思ったが、冬には全ての博物館と展覧会は午後4時閉鎖してしまう。夜を夜行に過ごしてずっと町を歩いたからホステルに戻って休憩した。夕食を食べるため、ホステルの近辺にあるバーに似ているレストランに入ってみた。スタッフは親切だったが、私達はリトアニア語ができないからメニューを読むのはチャレンジだった。ロシア語で『これは何でしょか?』と訊いてみたが、相手は片言のロシア語しかできなかった。リトアニア料理といえば、じゃが芋。夜にホステルの共用ルームに行ってみた。そこには沢山の日本人とフランス人、カナダ人と check-it-out-man がいた。バックパッカーのマイクロ・コスモスへようこそ!

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 リトアニア | ビリニュス

第 3 日

ビリニュス → トラカイ → ビリニュス
Vilnius → Trakai → Vilnius

色々な本と人によって、ビリニュスに近いトラカイという町は綺麗なところだ。あそこの一つの”名物”はカライムという少数民族だ。私はそういう少数民族に興味があるので、そこへ日帰り旅行として行こうと決めた。夜には雪が降っていたので、辺鄙にも都会にも雪が積もっていた。トラカイはバスで30分だけ離れている。しかしトラカイの名所はバス停からかなり離れている。続くと、周辺は段々田舎っぽくなってきた。30分後、メイン・ロード沿いには赤いと黄色い、青いと壊れている木造の農家が並んでいた。寒かったから、私たち以外に人がいなかった。

やっぱり冬に旅することも利点あり

やっぱり冬に旅することも利点あり

道路沿いのサインには『レストラン』と書いてあって、もう12時過ぎだったので農家の裏側に隠されているレストランへ行った。人が全然いなかったからレストランが開いてないだろうと思ったが営業中だった。しかもそのレストランの食べ物はかなり美味しくて値段も安かった。二つの橋と一つの小島を越えた後、トラカイの素晴らしい煉瓦造りの要塞がちゃんと見えた。その要塞はかなり広くて、完全に水に囲まれているから中世期のままの雰囲気が味わえる。
その村の古い中心かお城自体かどっちのほうが綺麗だったのは言いづらい。それともその場所の静寂・・・数時間後、またビリニュスに戻ろうとしたが、”各駅”のバスしかなかったので思ったより遅く首都に到着した。着いたとき、もう暗くなってしまったのでまた旧市街を観光することができなかった。しかし沢山の建物はライトアップされているので夜の散歩もお勧めだ。夜に素敵なレストランを探すために旧市街に入った。そのとき、暗い横町が見えるほど沢山の雪が降っていた。ある狭い通りで芸術家が作ったみたいなレストランをみつけた。コックは実験を喜んで料理を作る人だったようだが、実際は美味しかった。雰囲気も良かったので婚約するために快適な場所だろう。と思って婚約した。

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 リトアニア | ビリニュス | トラカイ

第 4 日

ビリニュス → リーガ
Vilnius → Riga

ベラルーシにも行こうとしたので、二週間の間に4ヶ国を旅することになってしまった。二週間は絶対足りないと最初からわかった。時間が少ないので、また北方へ進むことが必要だった。残念ながらリーガ行き列車がもうないので、バスで行くしかなかった。30分後、ビリニュスの郊外から出て長い平原に入った。相変わらず雪が降って、その雪が車が多い高速道路さえ完全に埋めてしまった。私たちの前に一人のアメリカ人と一人のイギリス人が座った。そのイギリス人は、イギリス人だから、英語の本を読んでいた。アメリカ人のほうはそれを気づいて、彼に『おっ、英語できますか?どこ習いましたか?』と簡単な英語で聞いた。『一応母国語だよ』とイギリス人が答えた。しかしこういう出会いはあまり偶然ではない。ビリニュスには外国人が多くてよく英語が聞こえる。国境に着いた前、バスは休憩所で止まった。外見だけでそれは伝統的な木造の家だと思ったが、中はとても近代的で、面白い民族音楽が流れていた。残念ながら、そのバンドの名前を知らされなかった。国境はそこからあまり遠くなかった。そして国境を越えるのは数分だけかかり、その後すぐリーガというラトヴィアの首都に着いた。

雪たっぷりのリーガの街

雪たっぷりのリーガの街

ダウガヴァ川の対岸に霞から聳えていたリーガのシルエットはとても印象的だった。こういう感じになるのは全く思わなかった。ビリニュスは落ち着いたところで、旧市街の中にいると『都会』という言葉が頭の中で出ないが、リーガはそれの反対で、とても賑やかな町だ。それは最初から思ったことだった。バス・ターミナルにも人がすごく多くてうようよしていた。トンネルを通過した後すぐ旧市街に入った。前に選んだホステルをすぐみつけて入ってみた。カウンターでは三人の若い女性が笑顔で『いらっしゃいませ!』のようなものを言った。あれ!?レセプション?三人の女性?これはホステルじゃないよね!確かにドアを間違えて違う場所に入ってしまった。礼儀を守るため、それでも値段を聞いてみたが、ダブルは70ラッツ(約1万3千円)でやはり高すぎた。出ようとしたとき、スタッフは『10%オフ!』と叫んだけど、元々行きたかった場所へ移動した。隣のドアはホステルへの入り口で、そこにはドーミトリーしかなかったが、14ラッツで一番上にあるドーミトリーを二人部屋として使えるようになった。
前夜には約50センチの雪が降っていた。市民たちは路上で自分の車を探して、雪が道路沿いで寄せ集められ、色々な建物は数メートルの雪の山の後ろに隠された。食堂のようなところで暖かいパンとパイなどを食べて、それで200円も払わなかった。旧市街自体はとてもきれいで、リーガは素晴らしい場所だとすぐわかった。
夜にいいレストラン又はバーを見つけるのはリーガで全く問題ではない。そしてどこへ行ってもメニューはいつもラトヴィア語とロシア語、そして英語で書いてある。最後に美味しいウォッカ”Стандарт”(スタンダート)というロシア以外に手に入りにくいウォッカを飲んだ。

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 リトアニア | ビリニュス | ラトヴィア | リーガ | 

第 5 日

リーガ
Riga

前日にかなり遅くリーガに到着したので、この一日間を完全にリーガに捧げたかった。旧市街はかなり広くて横町が多いので、この町を観光するのは時間かかりそうだった。然し、気温は急に上がってきて、0℃ぐらいで小雨が降りながら雪が溶け始めて道路が汚くなってしまった。違う言葉でいうと、天気は最悪だった。それにも拘らず、前日にバスから見つけた面白いテレビ塔へ行こうとした。

リーガの不思議なテレビ塔

リーガの不思議なテレビ塔

直接テレビ塔まで走るバスがないが、近くにある高速道路まで行くバスがある。バス停から普通に15分の間にテレビ塔まで歩けるが、その道は氷と雪に覆われたので結局30分以上かかった。私たち以外には一人もいなかったので閉鎖してしまったと思ったが、入った後にすぐ担当者が近づいてきて、1.20 ラツでチケットを売った。そして一緒にエレベータで上まで行った。誰もいなかったので、彼女にドイツ語で(!)プライベート・ツアーをしてもらった。
友達からリーガに美味しいペルメニの専門の店があると聞いた。ペルメニというのは、ロシア風の水餃子ということだ。ペルメニだけがあるレストランはやはり天国だ。しかし、実はそのレストランはファスト・フードみたいなところだったが、それでも美味しかった。色々な種類を試した後、また小雨が降りながらリーガの街を歩いた。すぐ寒くなったので、途中で時々カフェーや博物館などに入った。夜になったとき、小雨は大雨になって、通りは滑り台になってしまった。それでも夕方に新市街にある高層ビルへ歩いた。それはリーガの最高級ホテルで、ガラス造りのエレベーターで一番上にあるカフェーへ行ける。天気のせいでもちろん何も見えなかった。さすが普通の人が旅行しない季節だ。

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 ラトヴィア | リーガ

第 6 日

リーガ → タリン
Riga → Tallinn

天気が変わらないかやっとよくなるかと考えながらリーガからまたバスで北方へ進んだ。首都を出た後、まず大きい森林を越えて、時々茂みの間にバルト海が光って見えた。この日こそ空は暗くて寒いのに雨が降っていた。タリンまでの所要時間は5時間ぐらいだとわかったので、途中でまた休憩すると思ったが、バスが止まらなかった。3時間後、国境に着いた。EU 加盟を果したので、バルト三国の間には出国手続きがなくなった。

ヘルシンキ方面へバルト海を覗く

ヘルシンキ方面へバルト海を覗く

但し、入国手続きが相変わらずある。カーキーの軍服を着たエストニアの警備員の女がバスを襲った。その人は乗客のパスポートを見て、EU 諸国の人だったら何も言わなかった。EU ではない場合、短い尋問が始まった。お連れは日本のパスポートを見せたすぐ後、相手が『何故エストニアへ?』と嫌な顔でどなりつけた。『麻薬を使ってエストニアの少年を毒する。そして国会を爆破する』 ― と答えたくなった。その警備員は一体何の答えを期待したのかな。観光客っぽい、リュックサックを運んでいる若者の目的は知らないのか。その人はロシアのパスポートを持っている乗客に対して同じような無礼者だった。
タリンに近づいたとき、外はもう暗くなってしまった。バス・ターミナルは中心からやや離れていると地図を見てわかった。しかしバスはある賑やかな交差点の前に止まって、『City Center !』とアナウンスした。だから急いで荷物をピックアップした後に降りた。少し迷った後にいる場所をわかった。まず一番近い”Old Town Hostel”というホステルへ歩いたが、ダブルがなくてドーミトリーも満室だった。また100メートルを歩いた後、次のホステルを見つけたが、あそこのダブルは40ユーロ(5000円位)かかる。やはりタリンは高い。それはもしかしてよくここに来るお金持ちのフィンランド人のせいかもしれない。ホステルの内装はとても古くて綺麗だった。特に共用の台所は博物館でしか見えないほど古かった。最初のタリンの夕方の散歩の後に宣伝によって”エストニアの最初のパブ”に入ってみた。旧市街で一番安い場所であるらしいが、それでもビリニュスとリーガより全然高かった。

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 ラトヴィア | リーガ | エストニア | タリン

第 7 日

タリン
Tallinn

前の日にタリンをあまり見えなかったので、この一日間をずっとタリンで過ごしたかった。しかし、観光する前にまず郊外にあるバス・ターミナルへ行って、翌日のための切符を買った。その後、タリンの港と近くにある旧市街に行った。やっと天気がちょっとだけよくなってくて、雨が降らなかった。その代わりに気温はすごく低かった。途中で数年前バルト海で沈んでしまったエストニア号の犠牲者を記念するモニュメントを通過した。それは簡単なものだが、印象的なモニュメントだと感じた。中世期のままの厚い外壁と見張り塔は凄い。タリンは多分バルト三国の三つの首都の中で一番写真向きの町だ。前の日に、あるカフェーでガイドブックを置いてしまったので地図も説明もなかったのは残念だったが、夕方にまたカフェーへ行ったとき、スタッフはそれを戻した。観光をしながら一つ、二つのお土産を販売する店に入ってみたが、値段はすごく高くてびっくりした。例を挙げると、トナカイがのっているダサいセーターの一番安い版は1万3千円ぐらいになる。一日間旧市街もその周辺もジグザグのように横断したので、夕方に町全体を見た気がした。そうではないが・・・

タリンの旧市街の中

タリンの旧市街の中

あるところで、若い男の人は観光客に民族音楽の CD を売ってみた。彼はちょっとしつこくて、英語で滝のように私たちを説得してみた。関心がない顔をしたので、彼はそれをコミュニケーションの問題にして、銀行のモダンな留守番電話機のように『言語を選択しなさい!』と言った。追い払うため、『日本語!』と答えたが、私は彼を見くびったらしい。笑顔で相手が脳の隅から日本語の塊を取り出した。『オーモシロイ・オンガック!エストニア!グッド・・・ミンソク!』なんとかかんとか・・・私ばかりじゃなくてお連れも意味をよく分からなくてよかった。とにかく面白い人だった。
食べ物が美味しかったので、夜にまた同じパブに入った。そのとき、隣のテーブルに座っていたエストニア人の若者と知り合った。その人たちは、なぜこの季節にエストニアを旅するのかとよく驚いた。確かにもっと長くエストニアに滞在して、西方の島嶼へ行きたかったが、こんなに汚い天気だったら意味がない。その為、この夜は一応エストニアでの最後の夜になった。ホステルに戻った後、私はスタッフの男の人と知り合った。彼はかなり優しくて、エストニア語でよく出る” ää ”や” õõ ”などの文字の読み方を説明した。エストニア語を見ると、読み方は難しそうだが、実はそれは思ったより簡単だった・・・

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 エストニア | タリン

第 8 日

タリン → リーガ → ミンスク
Tallinn → Riga → Minsk

出発は12時だったら寝坊してしまうことができるのか。私たちはこの質問をもう少しで肯定するところだった。しかし、亡命中ではなくて旅行中だからそういうこともある。今までのこの旅行の行き方を見ると、亡命中と思ってもいいだろう。11時前起きた後、まず荷物を用意してバス・ターミナルへ急いだ。昔、タリンからミンスクというベラルーシの首都まで直行の列車があったが、その列車はもうないと前日に気づいた。直行のバスもない。実はリーガからミンスク行き列車がある。私たちのビザは29日から有効だったが、その列車は28日の23時40分国境を越えるので無理だろう。しかも二日間に一本の列車しかない。しょうがないから、まずタリンからバスでリーガへ戻った。気温は急に下がってきて、マイナス10度以下だった。ミンスクへの夜行のバスの出発まで、3時間ぐらい暇だった。

タリンの素晴らしい旧市街のパノラマ

タリンの素晴らしい旧市街のパノラマ

もう暗くなってしまったので、暇つぶしとしてまずインターネット・カフェー、そしてレストランに行ってみた。バスのチケットを買うため、まず両替所で段々太くなった財布のガラクタを整理した。ポーランドのズウォティとリトアニアのリタス、そしてエストニアのクローンで十分のラトヴィアのラッツをもらった。夜9時半にやっとバスが来た。私たち以外には、色々なベラルーシ人が待っていた。その内、70才ぐらいのおばあさんは『貴方たちも教会の会議に行ったか?』と聞いた。教会の会議のために彼女がよく動いたなと思った。バス自体はサプライズだった。ラトヴィアには古いバスもよくあるが、そのバスは近代的な二階つきバスだった。しかも席の半分以上が開いていた。
実は私はバスがあまり好きではない。しかし、今回は乗客が少なかったので、二階の一番前の席に座れた。夜だったので別に見えることがなかったが、足のために十分のスペースがあった。そして席はかなり便利だったが、それでも台湾の長距離バスが負けないと思い出しながら思った。約二時間後、すごく雪が積もっていた休憩所で止まった。外でちょっと歩いた後、またバスに乗ろうとして、お連れが『違うバスだよ!』と言った。確かにサンクト・ペテルブルク行きバスに入ろうとした。入ると気づくはずだが、もし気づかなかったらロシアの国境で酷い目に遭うだろう。夜1時ぐらい、ダウガフピルスという都市に着いた。そこからまた15分ぐらい雪のせいで分かりにくい小道を辿った後、何もないところで国境通過点を発見した。出国はもちろん全く問題ではなかった。ベラルーシ側には、乗客は全ての荷物を取って外で並んだ。私たちは唯一の外国人だったので問題になるおそれがあったが、警備員は何も言わずパスポートにスタンプを押した。色々な人によってベラルーシの特別な健康保険があるが、その窓口が開いてなかった。そして夜2時だったから、税関の人は爆睡していた。そのおかげで、無事にベラルーシに入国した。

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 エストニア | タリン | ラトヴィア | リーガ | ベラルーシ | ミンスク

第 9 日

ミンスク
Minsk

バスは便利だったが、それでもあまり眠れなかった。その為、ミンスクの殆ど無限の郊外の光の海が見えた。郊外はどこ終わるか、そして中心部がどこから始まるかというのは言いにくいだった。朝7時前、バスはバス・ターミナルに着いた。11月だったので、まだ暗かった。私たちはまず隣にある中央駅に入ってみた。どれぐらい探しても自動現金支払機がなかった。だから銀行の窓口で並んで現金を両替した。1ユーロで2,900ルーブルをもらった。バルト三国のレートはそれより全然低かったので、慣れにくいレートだった。ミンスクの駅は近代的で、ガラス、鉄鋼と大理石から作ったものだが、人が近代的ではなかった。沢山の酔った人が彷徨っていた。『珈琲一つ下さい』・・・『今作らない!離れ!違うところへ行け!』というのは最初のベラルーシ人との話し合いだった。東欧の社会主義へようこそ。少なくとも一握りのルーブルで町の地図を買うことができた。方面を分かった後、ラッシュ・アワーのときに地下鉄で郊外まで行った。続いて、終わりがないように長い通りを辿っていった。あるホームページによって、そこには安くていいホテルがある。安いというのは、ダブルは5〜12ドルぐらいかかる。

よく探した後に見つけた古い建物:ミンスクの教会

よく探した後に見つけた古い建物:ミンスクの教会

ほぼ一時間、深い雪に足を取られながら踏みしめ踏みしめ歩いた後にやっとホテルを見つけた。レセプションの女の人は短い睨み合いの後、『外人だから、一泊70ドル』と言い出した。それはショックだった。信じられなかったから、まずロシア語でスタッフと議論した。しかし、議論しても何も変わらなかった。しかしその女の人は急に同情を表して他のホテルに電話した。『ここは50ドル!』と彼女が言ったが、『高すぎる!』と私が答えた。次のホテルは50ドルだったが、それも高すぎると思った。ホテルの女の人はもうどうしてよいか分からなくなった。私たちもそうだった。『何で50ドルは高すぎる?』と彼女が驚いた。『こんなに郊外にある素朴な部屋だったら、パリにもロンドンにも50ドルを払うはずないから』と答えるしかなかった。しょうがないから、私たちは灰色のあちこちに窓がないアパートメント・ブロックに入っているホテルから出て、挫折感を味わっていた。
そのホテルのスタッフは地下鉄への行き方を説明したのはありがたいだった。次の問題はバスの切符を買うことだった。切符売り場は特別なキオスクだが、そのキオスクは開いてなかった。次のキオスクで『ビリエット』と言ってみた。それは東欧で誰でも分かる言葉だ。しかしあの若い女はそれを理解できなかった。何を言っても通じなかった。最後に他の町の切符を表して、『アヴトブス!ビリエット!』(バス!切符!)と言った。やっと通じたが、すると彼女が隣の開いてないキオスクを指差した。この悲劇を見たおじいさんは私の肩を叩いて、『いいよ、乗ろう』と言いながら私たちをバスに押し込んだ。次のバス停でやっと切符をもらった。切符には200ルーブルと書いてあるが、本当の値段は320ルーブルだ。
続いて、また地下鉄で他の、インターネットによって安いホテルへ移動した。ホテルといえば、実はそれは科学院の寮だ。寮だから、高くなるはずではないだろう。とんでもない!外人は50ドルを払う。私たちはもう疲れて、寮より安い場所をみつけるはずないのでギヴアップした。ベラルーシのホテルにチェックインする手続きは4枚の同じ質問がロシア語だけで書いてある書類を記入するということだ。それを済んだ後、中々古くて暗いダブルをもらった。
そのときまでの苦労は天気と町自体で報いられなかった。それは愉快な気分だけで耐えられることだ。ミンスクはただ膨大なコンクリートの砂漠だとすぐわかった。私たちは次の数時間の間に水を探している飢渇している人のようにこの砂漠を歩いた。結論として、この町には一日間だけ滞在するのは十二分だとわかった。この殺風景な大都市にもっと長くいるより、ベラルーシの田舎に行ったほうがましだ。ホテルに戻ったとき、最初に不機嫌だったホテルのスタッフは私たちと講和を結んだらしい。翌日にある小さい町に行きたかったが、そこには一つのホテルしかない。私はそのホテルの電話番号を持っていたので、スタッフにそのホテルに連絡してくれないかどうかと訊いてみた。で、スタッフは笑顔で『わかりました!』と言って電話した。そうなんだ、優しい人もいるんだ・・・
天気が悪かったら、夜に長くレストランを探す気がなかった。私たちが泊まった寮の中には妙な、変な匂いがした中華料理の店があった。台所のスタッフは中国人だと前に気づいたので、そこで夕食を取った。日本人のお連れを見つけた中国人は嬉しそうな顔をした。あそこの料理は”状況に応じて”よかった。というのは、色々な中華料理で必要な材料がなかったが、それでもまあまあ美味しかった。カウンターでは泥酔したロシア人が親切なウエイトレスにうるさくせがんだ。お連れはそのときにもうシャワーを浴びるために部屋に戻った。あのロシア人は私を見つけるのが時間の問題をすぎなかった。と考えて、ロシア人が近づいてきた。両手にウオッカ一杯のグラスがあった。『За дружбу!』(友情に乾杯)。続いて、ロシア人は『Немец?』(ニェメツ=ドイツ人)と聞いた。偶然に正解だった。こういうふうに話し合いが始まった。彼は本当にベラルーシ人ではなくてロシア人だったが、ベラルーシに住みついてしまった。そして彼がベラルーシの生活と自分の生活について心中の悩みをぶちまけた。話しながら、あいつが少なくとも5回私の名前と年齢を聞いた。そして部屋番号も聞いた。『えっ、部屋番号?何で?』と驚いた。『一緒にお前の部屋でウオッカを飲みたいから!』と彼が答えたが、私は『いや、部屋には奥さんが寝てるよ!』と嘘ついた。しかし彼は構わなくてカウンターへウオッカの一本を買いに行った。もう払ったから、私はそれをチャンスにして外へ逃げて、走りながら階段を登って部屋のドアをロックした。これはぎりぎりだった。

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 ベラルーシ | ミンスク

第 10 日

ミンスク → ニャズヴィシュ
Minsk → Nyazvizh

ミンスクから逃げよう!という希望が強かった。夏にはこの町を訪問するのは楽かもしれないが、こんなに寒くてどんより曇らせた11月の日だったらミンスクは意気沮喪させる場所だ。起きた後、まず地下鉄で駅に行って列車の切符を買った、出発する前には2時間ぐらい暇があった。だから駅の周辺を散歩して、偶然に中央郵便局を見つけた。確かにこの旅行から家族と友達にハガキを送るのはナイス・アイディアだ!今までそれについて全然考えなかった。モルドヴァにはハガキが全くなかったので、ベラルーシにもハガキがないおそれがあった。郵便局に入ったとき、まず驚いた。中は西欧の郵便局と同じように近代的だった。スタッフの説明によって、郵便料金は外国だったらいつも同じだ。隣国のポーランドへ送っても遠いニュージーランドへ送っても値段は同じだのがおかしい。「外国専用の切手15枚下さい」といって、相手が計算した後に「5400ルーブルになります」と言った。それは200円ぐらいだけだ。ハガキもあるかどかと聞いてみた。15枚のハガキが入っているパッケージがあったので、それも頼んだ。相手がまた電卓を出して全部を計算して「全部で4600ルーブルになる!」と発表した。えっ?私は驚いた顔をして考慮期間を与えようとしたが、相手は素早く私の手から5000ルーブルのお札をもぎ取ってしまった。そして400ルーブルのお釣りを戻した。彼女は電卓ではなくて、ソ連で誰でも使った算盤を使ったほうが良いだろう。

ニャズヴィシュの古くて綺麗な教会

ニャズヴィシュの古くて綺麗な教会

駅の食堂みたいなところでかなりまずいものを食べた後、электричка (エレクトリチュカ)という市電に乗って、2時間ぐらい灰色の冬景色を横断した。そしてガラデヤという田舎の町に着いた。乗る前にベラルーシの唯一の英語の週刊を買ったので、時間が経つのは早かった。その週刊は”The Minsk Times”と呼ばれて、光沢紙を使って印刷されているでかい新聞だ。第一面に、ルカシェンコという大統領の真面目そうな顔しか見えなかった。その上に ”Policy to benefit people” が書いてあった。隣に住んでいる親切かつ偉大な独裁者から愛を込めて。
ガラデヤに着いた後、まずニャズヴィシュ行きバスの出発時間を調べた。そのとき、タクシーの運転手が駅に入ってきて、「乗り合いするために後二人の乗客が要る」といった。乗り合いだったら安いだろうと思って彼についていった。こういうふうに100円ぐらいで10キロ離れているニャズヴィシュへ行った。狙ったホテルは”ベラルーシ通り”に接する。しかし3人に聞いても小町なのに誰もその通りを知らなかった。だから次の人に通りの名前ではなくて、ただ「ホテルはどこ」と聞いて、一つしかないからすぐ場所を説明してもらった(実はそれは徒歩で1分だけ離れた)。前日に電話したので、スタッフは私たちを待ってた。そのホテルのダブルは外国人なら3500円”だけ”かかる。ニャズヴィシュは小さくて田舎の町だが、見所が多いと気づいた。色々な古い建物や教会、そして修理中のお城などがある。教会にいた牧師が私たちを見たときにすごく喜んで、まず入った後にドアをロックした。泥棒が多いからというわけだった。そして牧師が笑顔で 「Do you speak English?」 と聞いて、「Yes」 と答えたとき興奮してきた。そして必死に英語で喋った。しかし、彼は他のお客さんと忙しかったので、30分後また会う約束をした。続いて、彼が教会の教壇や地下聖堂などを案内した。三つの文章の一つは必ず「私の英語はあまり良くないが・・・」だった。感謝として、私たちは教会のかなり高いハガキを買って、そして少額を募金箱に入れた。彼は今まで唯一の英語が少しできるベラルーシ人だった。
夜になったとき、ホテルのレストランに入ってみた。実はそれはニャズヴィシュという1万人以上が住んでいる町の唯一のレストランだ。遅くなると、そのレストランはダンスのできるバーになる。だから雰囲気は面白くて、料理はまあまあ大丈夫だった。ウエイトレスは礼儀正しい、昔風の人だったので、私たちにデザートを無理に押し付けた。この場所のおかげで、前日に体験したベラルーシの苦労を忘れた。

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 ベラルーシ | ミンスク | ニャズヴィシュ

第 11 日

ニャズヴィシュ → ブレスト
Nyazvizh → Brest

起きた後、私はまずホテルのロビーに入っているカフェーへ行ってコーヒーを買いたかった。ダメだった。スタッフはとっさに一日間ずっと在庫品調査を行うことを決心した。というのは、スタッフの三人のおばさんたちは閉めたガラスのドアの後ろに座って笑いながらコーヒーを飲んだりケーキを食べたりなどをした。しょうがないからホテルの近辺にあるケーキ屋さんに行った。そこにはロシアの伝統的なバター・クリームのケーキばかりが置いてあった。そしてマフィンのようなものもあった。それは美味しそうだったので、「これ下さい!」と指差した。すると、スタッフは「いや、これは古いから買わないほうがいいよ!」と答えた。まあ、警告したから優しいだろう。
定義できないものを食べた後、畑の間にバスでガラデヤへ戻った。雲は低くたれこめていて、空気が霞んでいたので空は雪に覆われた畑と融合した。どこが上、どこが下というのは途中で言えなくなった。バスは混みすぎて空気がすごく悪かった。ガラデヤの駅でまず次の大都市への切符を買って、そこでブレストまでのもっと早い列車に乗り換えると望んでいた。しかし、バラノヴィチという大都市には二つの駅があり、急行は全く違う駅から出発するとわかったので、やはり各駅停車で続いた。そうすると、ブレストまでの所要時間は5時間以上で、窓の外を見ると薄い灰色と濃い灰色しか見えなかった。
夜になった後、やっとブレストに到着した。駅はすごく混雑して、迷いやすそう場所だった。色々なホールには数百人の乗客が荷物の山を見守った。国際切符売り場を見つけたばかりところで、色々な年をとった女性たちが近づいてきて、ポーランドに行くか、そして行ったらいつポーランドへ行くかなどの質問をした。その人たちは一体何故そんなに人懐っこいのかな。答えは簡単だ:できるだけいっぱいのタバコを密輸したい人だ。だから旅行者にも頼む。それは同年に越えたモルドヴァ・ルーマニアの国境と同じもんだ。普通はポーランド人とドイツ人はよくポーランドからドイツへタバコを密輸しているが、ポーランドへタバコを密輸することはドイツ人にとってすごくおかしい考えだ。断るしかなかった。

バラノヴィチの中央駅とэлектричка(市電)

バラノヴィチの中央駅と市電

駅の近くには色々なホテルが密集しているが、そこへ行くためにはまず長い歩行者専用の橋を歩いて広い軌道施設を渡ることが必要だ。その橋の上で様々な旅の一連が完結した。1992年、列車でモスクワへ行った途中で、私は列車がブレストで真夜中に3時間ぐらい止まったとき、この橋を歩いたが、橋の上に酔っている人に追われたのですぐ列車に戻った。最初のホテルでもう慣れてきた話が始まった:「部屋がありますか」・・・「貴方たちの国籍は?」・・・「日本とドイツ」 ― というとスタッフはかわいそうな顔して頭を振った。外人だから80ドルになると言われた。
要するに、夜に雨が降りながらミンスクと同じ悲劇が始まった。次のホテルのダブルは外国人なら4000円ぐらいかかる。そのホテルのレセプションで初めて定価表を見た。確かに部屋の種類ずつ三つの価格等級が書いてあった。もちろん、外国人は一番高い値段を払う。それは政府が決まったことなので、どこでも同じだ。だから探してももっと安くならないと考えてそのホテルにした。ホテルにはスタッフは非常に多くて、どこにも番人やシーツを取り替える人、シャワーの責任者などがぼやっと座っていた。スタッフは宿泊する人より多そうだった。夕食を食べるため、またホテルのレストランに入った。メニューはニャズヴィシュのレストランのメニューとほぼ同じだった。食べた後、消化を促進するためにウオッカを飲もうとした。これは特にロシア風のサラダを食べた後に悪いことではない。私たちが頼んでしまったサラダは赤カブやニンジン、レーズン、ナッツや生クリームなどの妙な組み合わせだった。ウェイトレスに「ウオッカ一杯下さい!できるだけブレストのローカルのブランド!」と行ってみた。相手が頷いて、頼んだものを持ってきた。飲んだ後にそのブランドの名前を知りたかった。だから「これは何というものですか」と訊いた。「ウオッカですよ」という偉い答えだった。そうなんだ。ここはアルツハイマーの患者の食堂なのかな!?しかし、彼女は結局その質問の意味をわかって、ブランドの名前を教えた:водка ”СССР”(ウオッカ”ソ連”)。

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 ベラルーシ | ニャズヴィシュ | ブレスト

第 12 日

ブレスト
Brest

ドイツに帰る前、一日間ブレストに滞在する余裕があった。だからブレストとその町の有名な要塞を見学することができた。朝に普通のコーヒーをもらうことはまたチャレンジだった。ホテルのレストランは朝から営業しているが、そしてコーヒーも販売されているが、スタッフの二人は私の存在をよく無視した。呼んでも、手を振っても無視。確かに一つのコーヒーであまり儲からない。しかもコーヒーを作るのは面倒くさくて、手数の掛かることだ:? 注文を取る ? コーヒーを作る ? コーヒーをお客さんに持ってくる ? 金を徴収する ? カップを洗う ? 使った材料、時間と金額、そしてお釣りの金額を当座帳に記入する。うん、面倒くさい。朝にやりたくない。ベラルーシの普通のホテルとレストランにはコンピューターやレジがないので、書類手続きがすごく多い。

砦の中で展覧されているソ連製のタンク

砦の中で展覧されているソ連製のタンク

夜中に気温がかなり上がってしまって、ほとんど全ての雪が数プラス度で溶けてしまった。しかし、通りの上に危ない氷の装甲が残っていた。私たちはまずレーニン通りをたどって行ってレーニン広場とその真中に立ってあるレーニンの記念碑まで歩いた。レーニン万歳!そしてかなり中心から離れている要塞まで続いた。その要塞は思ったより広くて、真中にあるものすごく大きいコンクリートの頭はかなり印象的だ。そして勝利の60年後にも中々おかしい軍隊式のセレモニーが行われている。儀仗兵の内、女性もいる。歩哨の交代のとき、軍人は閲兵式歩調で行進している。軍靴がカチャンとした後、皆は足を90度の角度まで上げて、2秒ぐらいそのまま立ち尽くす。然し、それはすごく大変だから、軍人たちはよく倒れそうになって、たくまざる滑稽な儀式になってしまう。要塞自体とプロパガンダが多くてもよく精選した博物館、そして要塞の隣にある考古学博物館を見学するのは3、4時間ぐらいかかる。博物館で小成功があった。私は担当者にロシア語で「チケット二枚下さい」と呟いて、ベラルーシ人が払う値段でチケットをもらった。博物館にも外国人が二倍〜三倍ぐらいの値段を払うつもりだ。
要塞の観光を完了した後、ミンスクより多様性のブレストの中心に戻った。せっかくここまで行ったので、帰国する前にまたペルメニを食べたかった(参照:リーガ)。全てのレストランとカフェーにはメニューにペルメニという料理が書いてあるが、本当にペルメニがあるかどうかというのは別の問題だ。三番目のカフェーにはやっとペルメニがあった。そしてインターネットがあるコンピューターもおいてあった。しかし、鉄道の時刻表が乗っているホームページのスタート・ページを開くのは15分以上かかって、その間ペルメニが出来上がったのでギヴアップした。
あるガイドブックによって、ブレストには東欧の最良のインド料理のレストランがある。住所を持っていたので、そのレストランを探しに行った。私たちはすぐその近代的な建物をみつけたが、インド料理のレストランは中華料理のレストランに交代された。ベラルーシでインド料理を食べるのは面白そうだったので、とても残念だった。その代わりに、夕方に肴料理の専門店をみつけた。海岸が遠いから、ベラルーシで魚を食べるのはあまりよくないかもしれないけど、そのレストランは思ったよりよかった。しかもドイツ語と英語のメニューもあって、そしてロシア製の生ビールも販売された。それに加えてスタッフは”お客様が王様です”という諺の意味をわかった。このレストランは最後の数万ルーブルを使い果たすために丁度いい場所だった。

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  ベラルーシ | ブレスト

第 13 日

ブレスト → ワルシャワ → ベルリン → ハレ
Brest → Warschau → Berlin → Halle

二週間はまだ経たなかったのにもう旅の終わりだった。しかし、天気はずっと悪くて、そしてベラルーシは面白かったが、ある程度まで不快感を与える場所だとわかったので、帰国をするのは普通より哀愁という感じを起こさなかった。ドイツに約束があったから、最後の一日間の間にベラルーシからドイツまで行くことが必要で、大変そうだった。それは長い距離だから、朝4時半に起きた。列車は6時ぐらい出発したが、出国手続きは駅の構内で行われているので。遅くとも1時間前駅に行ったほうがよいといわれた。前日に切符を買いたかったが、それはまだ売られなかった。ワルシャワというポーランドの首都までの運賃は約13ユーロだと言われたので、26ユーロぐらいの等価のルーブルをキープした。
だがしかし、朝にまた切符売り場に行ったとき、窓口の人は一人ずつの運賃は24ユーロだと言ってしまった。要するに二人で48ユーロが必要だ。しょうがないから、隣のホールに入っている両替所へ行ってお金を両替した。窓口に戻ったとき、違う人がいた。「ワルシャワまで二つの切符?7万5千ルーブルになります!」といわれた。7万5千というのは、26ユーロ。えっ?二分前48ユーロと言われたじゃない?自分自身に対する疑いが沸いてきた。両替所に戻って、私たちをまた見たスタッフは目白をむき出した。そして前にもらった数万ルーブルをユーロに戻した。
大きい待合室には閉めたドアがあって、その前数十人が待っていた。ドアの後ろにはベラルーシの税関があるので、待っている人にとってあれは”恐怖の門”だと言ってもいいだろう。いつかドアが開けられて、6人が合図で中へ呼び寄せられた。その6人の内、私たちがいた。歯医者に行く感じがした。皆はまず全ての荷物を長いテーブルの上に置いた。税関の職人はまだいなかったが、他の旅行者はそこに置いてあった書類を記入し始めた。私たち外国人もこの書類が要るかどうかわからなかったから、念のためにロシア語だけでの書類を記入した。いつか気分が悪そうな税関吏が来た。彼はただ今持っている通貨の種類と金額を知りたかった。次の人はお連れだった。彼女は彼に私と同様にその書類を渡して、すると彼がその紙をくしゃくしゃに丸めて、それを彼女の足の前に投げた。以上だ!これでお連れは完全にベラルーシのことを懲り懲りした。ミンスクには色々な人が密かに彼女の写真を撮ってしまった(普通のベラルーシ人はカメラを持ちながら町を歩くはずではないだろう!)。彼女をじっと見る人も多かった。スタッフによる扱い方はよく最低だった。そしてこの人・・・お連れがキレた。
最後はパスポートのコントロールだった。それも十分時間かかった。次のドアの後ろにはやっとホームがあった。列車が出発する3分前、やっと出国手続きが終わった。それは本当にぎりぎりだった。ホッとしながら寝室しかない列車に乗った。車掌はポーランド人で、完璧なドイツ語で「寝室だから一人ずつ11ユーロの別料金かかる」と言った。だから切符の値段は違うか!私たちの車室にはロシア人がいた。彼はモスクワからポーランドの最初の駅まで行ったが、ジャケット以外には荷物が全くなかった。私たちばかりではなくて、ポーランドの税関もそれについて驚いた。
せっかく11ユーロを払ったので、ワルシャワまでの4時間の間にちゃんと寝ようとした。午前中、ワルシャワに着いた。次の列車が出発する前、一時間ぐらい暇があったから、切符と食べ物を買うために丁度よかった。続いて、また ワルシャワベルリンの急行でベルリンまで行った。6時間後、ベルリンで乗換えをしてハレへの急行に乗った。
結局バルト三国を観光するためには一週間ぐらいしかなかった。それは絶対足りない。然し、やはり11月はこの地方をみるためによくない。観光客が少ないが、町などはただ汚い。綺麗さと完璧さを探す人はベラルーシへ行かないほうがいい。然し、冒険と非合理性が好きな人にとって、ベラルーシは天国だ。これもヨーロッパの一面だ。私の意見によって、ベラルーシはヨーロッパの中でヨーロッパから一番離れている国だ。それは地理学的な意味ではない。ヨーロッパの北朝鮮へようこそ!

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